ランダムワードエッセイ2「ポカヨケ,そしてちくわのCMの考察」
※「ランダムワードエッセイ」とは, ランダム単語ガチャ(https://tango-gacha.com/)で出た単語について,私こと道の上が体験談や思ったことなどをつらつら書いていくという企画です。
前回→(https://note.com/road_klis21/n/n5994ef6e3508)
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もしかすると年代や地域によっては伝わらないのかもしれないが,ニッスイの「活きちくわ」という商品には有名なCMがある。その内容は,少年が食卓に並べられたちくわの穴を覗いたところ,「海から魚が飛び出して工場に入り,ちくわとなって出てくるアニメーション」が見えた,というものである。可愛らしさを伴ったシュールな映像は見ていて楽しいし,商品の印象も強く残る。極めて優れたCMであると言えるだろう。( https://www.youtube.com/watch?v=jSTjJp1gjZ4 ←実際のCM )
さて,ここからが本題なのだが,私にはこのCMに関して,初めて視聴したときから現在に至るまで,ずっと疑問に思っている点がある。それが,CMの冒頭で少年が発するこのセリフである。
「今日ぼくはちくわの中身をのぞいてしまった」
一体この少年は何故ちくわの中身を覗き,そして何故「のぞいてしまった」という,覗いたことを悔いるような台詞を発しているのだろうか。
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人間というのはミスをする生き物である。そして「人間というのはミスをする生き物である」というセリフは,言う人によって周囲の反応が大きく変わる。普段しっかりしている人が言えば「寛容」という印象を受けるし,うっかり者が言えば「開き直りやがって」と思われる。では私はどうなのかというと,おそらくこのセリフを口にした瞬間に四方八方から「黙れ」という言葉が飛んでくるだろう。
いや,待ってほしい。確かに私は物をよく失くすし,LINEは既読だけつけて返信を忘れるし,友人と食事に行く際は3回に1回の割合で財布を持っていない。そんな人間が「いやいや,人間っちゅうのはミスをする生き物なんでヤンスよ」と言ってきたら,何だこいつは自分を正当化する気か,少しは反省の意思を見せろと思われるのも無理はない。
しかしだ,我々の社会は人間がミスを犯す前提で構築されているというのもまた事実なのである。
例えば工場などの製造ラインにおいては,部品を誤って装着することがないように,部品同士の接合部の形を一対一対応にしておく,といった工夫が取り入れられている。このように,物理的にミスが起こりえないような構造や仕組みを設けることを,ポカヨケ(poka-yoke)という。
また,家電においては,例えば洗濯機が稼働中に開かないようになっていたり,IH コンロが調理器具の載っていない段階で加熱できないようになっていたりと,使い方を誤っても即座に事故につながらないようにする工夫が設けられている。このような,素人が間違った使い方をしても深刻な状況に陥らないようにする,という設計思想のことを,バカよけ(fool proof)という。
なかなか辛辣な表現であるが,なぜこのような概念が存在するのかといえば,それは人間が「ポカ」や「バカ」をやらかす存在であるからに他ならない。ミスを犯すことを責めるのではなく,そもそもミスが起こらないようにするというのは,私のような人間が生きていく上では大変ありがたい考え方である。
そして私は思った。人間はミスをする生き物であるという前提と,それに基づく「(ポ・バ)カヨケ」の考え方は,もっと広く応用が可能なのではないだろうか,と。例えば我々の身近なところに,人間が懲りずに同じミスを繰り返し続けている世界があるではないか。そこにこれらの概念を持ち込んでみたらどうだろう。
その世界というのはそう,民話の世界である。
具体的に言おう。私はポカヨケとバカよけによって,見るなのタブーが破られることを防ぎたいのである。
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今日ぼくはちくわの中身をのぞいてしまった。
改めて見てみると,非常に不思議でキャッチーな文句だ。改めて私がこの文句に対して感じる疑問をまとめてみると,以下の2つになる。
1. なぜ少年はちくわを覗いたのか?
2. なぜ少年は「のぞいてしまった」という表現を用いているのか?
まずは1の疑問に関してだが,これを解決するために役立ちそうな情報は,CMからはほとんど読み取れない。とりあえずの仮説として,「子どもらしい好奇心で覗いた」とか,「暇つぶしになんとなく覗いたと」いったものが考えられるが,これらの仮説を補強する情報も否定する情報も見当たらない。
それ以上に厄介なのは2の疑問である。~てしまった,という表現には「完了」の他に「残念」や「後悔」といったニュアンスが含まれるが,少年の振る舞いからこれらの感情が読み取れないのである。確かに彼はちくわの中のアニメーションを見た後,「あっ!」と声を上げて驚き,その場から離れるという動作を見せている。しかしその後で彼は,何事もなかったかのように笑顔でちくわを頬張っているのである。「見てはいけないものを見てしまった」というような恐怖を感じているようにも見えない。全くもって不思議だ。
CMからの情報だけでは限界があると判断した私は,そこに答えが書かれていることを期待し,ニッスイのホームページを訪れた。商品一覧の中から「活きちくわ」を選択する。そして,そのページに書かれていた情報を見て,私はちくわの穴のように目を丸くした。
(https://www.nissui.co.jp/product/00014.html ←活きちくわの公式ページ)
そこには,YouTube上で数10回は見た,件のCMの動画が貼られていた。しかし注目すべきはそこではない。そのCMにつけられているタイトルだ。
活きちくわ「中身をのぞいてみよう」編
中身をのぞいてみよう!? これは驚きだ。「のぞいてしまった」という発言から,ちくわを覗くということは決して褒められない行為なのだと思い込んでいた。しかし実際には,それはむしろ推奨される行為だったのである。
そしてこれによって,1の疑問にはほぼ答えが出た。なぜ少年はちくわを覗いたのか,それは「中身をのぞいてみよう」と勧められたからである。誰にかは不明だが,CMに登場する彼の母親に,と考えるのが自然だろうか。どのみち,ちくわを覗いたのは彼の意思によるものだけではなかった,ということは間違いないだろう。
しかし1の疑問が解消されると同時に,「なぜ少年はちくわを覗くことを勧められたのか」という新たな疑問も生じた。2の疑問に対する手がかりもまだ見つかっていない。考えすぎで頭が痛くなってきた。
仕方ない,休憩がてら腹ごしらえといこう。なにか簡単なものでも作ろうと冷蔵庫を開けると,私の目に飛び込んでくるものがあった。ちくわだ,と言いたいところだが違う。鮭の切り身だ。パックの中に揃えられたピンク色の鮭の切り身を目にした瞬間,私の脳裏に浮かんでくる思い出があった。
瞬間,電流が走った。なるほど,そういうことだったのか。私にはすべての謎が解けていた。
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見るなのタブー,それは世界各地の神話や民話に見られる類型の一つで,簡単に言ってしまえば「『見てはいけない』と言われていたものを見てしまった結果,ネガティブな結末を迎える」という趣旨の物語のことである。有名どころでは,ギリシャ神話におけるパンドラの匣や,古事記における黄泉の国のイザナミなどが挙げられる。そして,現代日本で最も人口に膾炙している見るなのタブーと言えば,やはり『鶴の恩返し』と『浦島太郎』であろう。『鶴の恩返し』では障子が,『浦島太郎』では玉手箱が,「決して開けるな」と言い含められていたにもかかわらず開けられてしまい,開けた者はそれぞれ悲劇的な結末を迎える。
改めて考えると,いったい何度,同じような失敗が繰り返されているのだろう。歴史の中で1つのパターンになるほど同じ失敗が繰り返されているのならば,見られたくない側は何らかの対策を講じてしかるべきではないだろうか。
もう人間の良心を信じるのはやめた方が良い。人間が「見てしまう」生き物なのだということを前提として,障子につっかえ棒をするなり,箱のふたを接着剤でつけるなりすればよいのだ。あるいは障子を2枚隔てることで,1枚目が開けられてもすぐには正体がばれないようにするとか,箱を二重底にすることで,開けた途端に老化してしまうことを防ぐとか,やりようはいくらでもある。最初から間違いが起こらないようにし,間違いが生じたとしても重大な被害が起こらないようにすれば,民話の世界でもみんなハッピーではないか。ポカヨケ・バカよけさまさまである。
…… しかし,当然ながら話はそう単純ではない。聡明な鶴や乙姫が,私が思いつくような対策を思いつかないはずがない。彼女らが策を講じなかったのには,きっと何か重大な理由があるように思われる。
もしかすると,鶴や乙姫は人間が『見てしまう』生き物であることを理解した上で,それでも相手が自分の言いつけを守ってくれるのかを確かめようとした,即ち相手の自分に対する想いを量ろうとしたのではなかろうか。この解釈は,それなりの説得力を持つように思われる。
しかし私は,そのような解釈だけでは,見るなのタブーが真に伝えようとしていることは読み取れないと考えている。見るなのタブーは,単に「人間は『見るな』と言われると見たくなってしまう」という教訓を伝えているだけなのか。物語に登場する人々は,親しい者,愛する者,崇拝する者など,様々な相手から「見るな」と言われるが,その忠告を悉く無視してしまう。これは,流石に不自然ではないだろうか?
見るなのタブーにおいて,見る側が必ず「見てほしくない」という願いを踏みにじること,そして見られる側がそれに対し策を講じないこと,これらには何か,もっと深い理由があるのではないか?
そして,その理由が,私には恐らくわかっている。
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私の実家では,朝食に出てくる魚と言えば鮭の切り身かアジの開きだった。幼いころの私は,食卓に二種類の「魚」がのぼる日々を過ごすうち,興味深い事実を発見した。そして,子どもらしい純粋さをもって母親にそれを報告したのである。
「お母さん,アジには目がついてるのに,鮭には目がないんだね!」
要は昔の私は鮭が切り身のまま海で泳いでいると思っており,その恥ずかしい勘違いの思い出が,冷蔵庫の鮭の切り身を見たことで思い出された,という話である。ここから話題を食育の重要性につなげることも可能ではあるが,今言いたいのはそういうことではない。
活きちくわのCMに登場した少年もまた,私と同じような勘違いをしていたのではないだろうか。
こう考えると,すべての謎に対して合理的な説明が可能なのである。
詳しく説明しよう。ここに1人の少年がいた。自宅ではちくわが頻繁に食卓に上がっており,彼はそれが魚の身であるということもなんとなく知っていた。そして幼い彼は,水中を穴の開いた体で泳ぐ「ちくわ」という魚が存在するのだ,という誤解をしたのである。
そんな彼はある日ちくわの「中身」を覗く。そしてそこで,先述した魚が工場に入りちくわとなって出てくるアニメーションと,「ニッスイのちくわは 新鮮なお魚を ていねいに焼き上げているんだよ」という文句を目にするのである。ここで彼が実際にちくわの穴を覗いているのは暗喩に過ぎない。少年にとってちくわの「中身」を覗くというのは,ちくわの「本当の姿」を目にするということだったのである。
こう考えると,CMタイトルの「中身をのぞいてみよう」という言葉の意味も明確になる。それは彼の周りの大人,ひいては社会が,空想好きな少年に正しい知識を身に着けてもらおうと,優しく語り掛けるセリフだったのである。「君,ちくわが海で泳いでいると思っているのかい? ちょっと中身をのぞいてみようよ」と。
こうして少年は,ちくわは魚のすり身を焼き上げた食品である,という正しい知識を得る。ただし,それは彼にとって,必ずしも嬉しいことばかりとは限らない。彼が思い描いていた穴あき魚は,存在を痛烈に否定され,1人の人間の空想の中という,大きな住処を失うことになる。人間は事実でないと知ってしまったことを事実であると思いなおすのは不可能であり,つまり事実を知るということは不可逆的な行為なのである。だからこそ,少年は新たな知識を得られたことを喜ばしく思いながらも,失われた「ちくわ」のイメージがもう戻らないことを直感的に理解したため,
今日ぼくはちくわの中身をのぞいてしまった。
と述べたのである。
さて,以上でニッスイのCMにまつわる大きな謎が解き明かされたわけだが,まだ話は終わらない。いや,寧ろここからが本題だ。勘のいい方は既にお気づきかもしれないが,このちくわのCMと「見るなのタブー」は,実は同一の主題を扱っているのである。
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先ほどちくわのCMについて述べたことを簡単にまとめると,こうなる。
「ちくわ」という魚が存在すると誤解している少年が → ちくわの中身を覗いたことで → ちくわが魚肉の加工品であることを知り → そのことによって想像上の「ちくわ」が消えてしまう。
では次に,「見るなのタブー」の代表例である『鶴の恩返し』について簡単にまとめてみよう。
娘が布を織って孝行してくれていると誤解している老夫婦が → 障子をあけて中を覗いたことで → 娘が鶴だったことを知り → そのことによって娘(鶴)は消えてしまう。
両者が非常によく似た構造を持つことにお気づき頂けただろうか。これらの主題を一般化してまとめると,「非現実を現実だと信じている主体が,現実を知り,それによって非現実は消えてしまう」といったものになる。すなわち,ちくわを覗くことと障子を覗くことは,全く同じ意味をもつ行為なのである。
この文脈で今度は「浦島太郎」についてまとめてみよう。この物語は上記の2つに比べるとやや複雑な構造を持っている。
浦島が亀を助けると,その亀が人語を話し,浦島を竜宮城に連れていく(ここで亀は,普通の亀という「現実」を装って浦島に近づき,竜宮城という明確な「非現実」に案内することから,人に非現実を現実だと誤解させる存在の象徴としてとらえられる)。そして浦島は竜宮城で楽しい日々を送り,地上のことを忘れてしまう(非現実を現実だと誤解している状態)。ある日,急に元の世界が恋しくなって地上に返してもらうが,そこでは時間の経過という「現実」が待っていた。浦島は一縷の望みにかけて玉手箱を開けるが,これによって老人になってしまった(「現実」を正面から受け止めたということ。二度と竜宮城には戻れないことから,非現実の喪失も起こっている)。
さて,ここまででちくわのCMと「見るなのタブー」に共通する主題についてはご理解頂けたと思うが,両者には大きな相違点も存在する。それは,「現実を知る」ということに対する評価の違いである。そして思うに,この違いこそが両者が成立した時代を比較するうえで決定的に重要なのだ。
現代に制作されたちくわのCMにおいては,「中身をのぞいてみよう」と,現実の存在が現実を知ることを推奨している。対して古くからの物語の類型である「見るなのタブー」では,「決して見てはいけません」と,非現実の存在が現実を知ることを禁じようとしているのである。このことから,現代においては,昔に比べて現実の力が増大されていると評価することができる。
くわしく説明しよう。
昔,人々は周囲の風景や現象に多くの非現実を見出し,それを現実と信じて暮らしていた。しかし些細なきっかけで,その非現実に疑問を抱くことがある(『鶴の恩返し』で老夫婦が娘を怪しんだり,『浦島太郎』で浦島が元の生活を急に思い返すのはそのことの象徴であろう)。そうなると,人々は遅かれ早かれ,おのずと現実を知ることになる。いや,現実を知らずとも,非現実を現実と思い込んで暮らすことは難しくなる。人間が非現実を非現実として認識した結果,現実を知りたくなってしまうということは自然な反応であり,それを制止することは不可能だ。「見るなのタブー」でポカヨケやバカよけが意味をなさない理由も,ここにある。
しかし,非現実を現実と信じて暮らしている人々にとって,現実を知るということは大きな喪失感を伴う行為である。長年信じていた物事が非現実になり,もう二度とそれを立体感をもってイメージすることはできないのだ。だからこそ「見るなのタブー」において非現実は現実を見せまいとするし,忠告を無視して見てしまった人々は深い悲しみに沈むことになるのである。
対して現代ではどうか。社会で生きて行く上で,現実を「知識」として知ることの重要性は増す一方であり,その結果として非現実が現実だと誤解されることはほとんどなくなった。現実が持つ非現実への本質的な優位性は更に強まり,「中身をのぞいてみよう」に代表されるように,現実は現実を更に広め,非現実が存在することを許さない。非現実が現実だと誤解されている時間が短いからこそ,現実を知った際の喪失感もさほどではなく,少年も笑顔でちくわを食べるのである。
我々が暮らす時代の海には,もはや切り身やちくわが泳いでいることはないし,彼らが姿を変えて恩返しに来ることもない。簡単に現実を知ることができるのは喜ばしいことだが,私はそこにどこか,知らない生き物が絶滅してしまった時のような漠然とした悲しみを覚えるのである。
今回の単語……「安全装置」