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人生終わらせかけてた私が幸せを掴んだ話

33歳ごろ、異動になって仕事のルールが大きく変わり、結果が出せないことを契機に自分の自己肯定感がマックスまで下がっていたころ。

何がどう転んでそうなったのか未だにわからないのだが、素敵な女性とのご縁が増えた。その中でめちゃくちゃ綺麗な方で気遣いも出来るすごく素敵な方と仕事を通してお近づきになることが出来た。
取り持ってくれたのは、当時毎日のように叱られていた上司である。


(余談だがその少し前に、生まれて初めて床屋で眉毛を整えた。その成果もあるかもしれないから…そういう話に飢えている方なら今すぐ行った方がいい)

ただぶっちゃけた話、私の心は上述の状況でそれどころではなかった。自分の心を守ることに必死なのに相手のことを考える余裕などあるはずもなかった。

当時の私の心を占めていたのは「取り持ってくれた周りの人に失礼のないように」ということが最優先であったことともう一つ、「これに失敗すれば今度こそ自分を保つことが出来ない」というものだった。

そこにその人とお付き合いしたいとか、そういう感情はまったくなかったのである。

もっとわかりやすく言い換えれば、相手の好意を自分の生活の変化のために利用しようとしていた、といった感じだ。
ここでお付き合いするなど結果を残せば、上司も、そして私自身も、私を認めることが出来るのではないかという思いが占めていたのだ。


だから、必然的に失敗した。


最後の瞬間はその女性と直接言葉を交わすこともなく、取り持ってくれた上司越しに告げられた。




「こんな千載一遇のチャンスですらモノに出来ないとか。もうお前は何も変えられないだろうから◯ねば?」




一緒に放たれた言葉はまっすぐに胸に突き刺さった。

ずいぶん騒がしい場所で話をしていた覚えはあるが、その瞬間、音がすべて消えたことも鮮明に覚えている。


そう。自分を変えられなかった。


このチャンスでも変えられないなら、これ以上生きても何も変わらないだろうからしょうがないか。

言われた言葉は、誰より自分自身が一番思っていたことだった。

33年か。短いし何もできなかったけど、確かに潮時だな。

そう思って、住んでいた土地の中でなるべく高い場所を探し歩いた。



ここならいっかぁ、と思える場所にたどり着いた時に、自分の中でなんとも情けない考えが浮かんだ。

「自分の将来のことを考えて蓄えを一定してきた。ずっと我慢だけして終わるのもなぁ…。その金を使い切ってからでもいいんじゃないか。」

「今仕事をやめたりするのも中途半端だな。そうだな、34歳までに何も変わらなければ辞めて、35歳になってからそうしようかな。」

私は区切りの年数を決め、自分への最後のチャンスとして持っているお金を楽しみと自分への変化に費やし、賭けてみることにした。

それでダメなら…と覚悟を決めた。



覚悟が決まれば案外自分を変えることは容易であった。

いや。それでも甘い部分は山ほどあった。今考えたら本当にその覚悟はあったのかと自分に問いただしたくなる。

ただそれでも自分を変えられたと宣言してもいいくらいの結果と人生の好転は得られたように思う。


最初に変わったのは仕事への意識と成果だった。


以前までは出来ないことや理由を探してばかりだったことを、前向きに考えお客さんの課題解決に費やせるようになった。出来ないことがあっても虚勢を張るのをやめて出来ないことを認め、お客さんに助けを求めた。

以前までは出来ないと告白してしまうことが不安だったし怖かった。
ただ、認めた先の反応はとても温かいものだった。お客様に恵まれたことも大いにあるが、自分を出しても問題がないことを知ることが出来た。心から感謝している。

その結果をもって異動することも出来、そこで出会ったのが今の彼女だった。

正直出会うまでの間はそんなことがまた自分の人生に起きるとは夢にも思わなかった。周りの同世代の人たちが結婚したり一緒になる報告を聞くたびに心がざわつき、このまま一生一人で生きていくものだと本気で覚悟していた。

ただ自分を変えることさえ出来れば、そんな機会も突然降ってくるものなのだということを学ぶことになった。

終わらせようとしていた数年前の自分からは考えることもできなかったことである。

なぜ私に近づこうと思ったのか、聞いてみたことがある。

「とても楽しそうに生きているから」とのことだった。

くどいようだが数年前は楽しく生きるどころか辛くて人生を終わらせかけてた私のことをそう評してもらえたのは驚きだった。


最近セミナーでいい話を聞いた。

「人の心配事の97%は起こらない」
「しかも心配事はその人の能力を30%以上低下させる」

自分の心身のことだからこそ、とんでもなく迷惑な話だ。勝手に何をしてくれてんだという気持ちもあるが、同時に言われていることの自覚はある。なんなら、私の能力の低下は30%どころではなかったのではないか。


ただそこから解放されたときに私は、はじめて本来の自分というものに出会うことが出来たのだと思っている。

今の彼女にはすべてを話しているので一度尋ねてみたことがある。

「まだ出会う前だけど、もし出会ったときの俺が話していたような頃の俺だったらさ、こうして一緒にいられたかな?」

答えはこうだ。

「100%ないかな~」

出会ったタイミングに心から感謝している。


自分の悲運を嘆くことも、過去を悔やむこともいくらでもできる。
ただ、それをしたって何にもつながらないことを私は自分の人生で痛いほど経験してきた。

そんなものはあとでいくらでも出来る。背負うものや責任が自動的に増えていくからだ。心配しなくても勝手に増えているのだからそれまでに勝手に心配事を増やして自分の能力を下げることなど無意味なことである。


わかってても出来ないのは承知だが、出来ないけどわかっているという状態が作れたらまぁとりあえずは御の字ではないだろうか。

私は心配をしてもしょうがないのだから、全部をさらけ出していた。
大丈夫、これ以上は悪くはならないという気持ちだった。

結果として悪くなるどころか良くなっていくことがほとんどだったのだから、面白いものだ。


人生には何が起こるかわからない。

少しのキッカケで、とんでもない角度への好転を果たすことだって、きっとある。


ただ、それはしけた顔をしている奴のもとには訪れない。


幸あれ。

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