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「MNY TKS!」

通勤路に新しくファンシーショップがオープンしたことに気づいた。見るからに居抜きだが、前は何の店だったのかまったく思い出せない。

身内が闘病のおり弱気になり「死ぬのは構わないが死んで忘れられてしまうのがあまりにつらい」とよく泣いていた。私は彼の忠実な身内なので、彼の病死後も一日も彼を忘れたことは無い。忘れないのが美徳だと思って生きてきた。

一昨日から急に気温が下がった。そのせいかどうかは定かでないが、テレワークで人の減った今日のオフィスでは舌打ちや腹立たし気に机を閉める音がやけに響いて聞こえてきた。

転職し、今の会社に入社してまだ半年も経っていない。多忙を極める上司の少ない余裕を探して仕事を覚えるのと、仕事を覚えていない非新卒という身の上でもどうにかして赦されるべくとにかくなんでもこなすよう努力することで毎日必死だ。

あんなに出来事と日付を絡めて記憶に留めておくのが得意だったのに、最近は今朝の出来事だったのか昨日の昼の出来事だったのかもおぼつかないようなことが多い。

仕事のあとはもぬけの殻でぼんやりしてしまうことが多く、半時間ほどオフィスビル内のベンチに座り込み、大きな窓の外と吹き抜けの天井と壁、床の幾何学模様をじっと見つめてしまう。何か見たくて見ているのではない。目に映るものの規則に視線を滑らせて感じるリズムに身を任せているだけだ。

床を見るのは楽しい。

正確には、心配事が多くあまり頭をきちんとあげて前を向こうという気力が移動中には湧かないから、地面ばっかりみている。そんな自分が不安で、強がって、虚勢を張って、地面や大きな建築物の幾何学模様が楽しい、という気持ちをあえてインストールした。

本当だとか虚勢だとかは私自身にとってはどうでも良くて、ただ私はこの重く苦しく不安定でギリギリな日々に何かしらの思い出を求めて、今日も足元を眺めては繊細なニュアンスの違いに心が躍り胸がほんの少し温かくなる瞬間を積み重ねる努力をしてる。

退勤後は帰宅がてら、その日の出来事を朝から振り返る。何時に起きて、何か口に入れたのか、アイシャドウと口紅はどれを使ったっけ。通勤時に聞いた曲を帰りもまた聞こうか。人間の声より楽器の音に耳を傾けてたいな。そうそう、オフィスに着いてからサーバーでコーヒーを淹れて、他部署の人に預かっていた書類をお渡しして、懸念だった書類を提出してもらったんだった。あ、そんなことよりオフィスにつく前に同じシマの人に会って、ジャケットお揃いですねってお話したんだった。

ここから先はこなしたタスクを振り返りさえすれば細やかに思い出せる。不規則やアクシデントの多い通勤の時間帯を抜ければ振り返りの作業はフローに乗る。

今日の仕事はシビアな締切への対応を何かしら乗り越えないとしょうもなさすぎてうんざりする、という経験を私へ叩き込んだ。かといって一人前の会社員としてプレーできるほど今日明日の私が急成長できるわけでもない。

でも、私の身の周りのクレーターや現実や日常をねじ伏せてでも、今の私を今の会社が必要としてくれる私に改造したい。不穏なことを言うと嫌われたり呆れられたりしがちだけど、このチャンスを逃したあとの地獄を考えたら、やっぱもう死んじゃってもいいくらいの攻め方で努力をしていきたい。周囲が喜ぶピンポイントへとどめの一撃をひとつひとつ愚直に、誰もできることだから私こそが、ふさわしいクオリティで仕留めたい。

そういうスピード感と仕事のクオリティを担保するようなパフォーマンスをプレイしているとどうしても自分の目にピンポイントで映るものは仕事のコアな問題に限られてくる。そこまで大事でないことは記憶の前に意識しないし、記憶したとして丁寧に解して落とし込んで、なんてやる余暇はない。感動すべき対象も、時間も、深度も、あえてどんどん控えめにしていくことで社会的な主体性を明確にできるよう急いで頑張るべきタイミングだ。闘わないと生きてはいけない。自分に貼ってしまった「私は弱い」のラベルをこの手ではぎとるべきだ。

そんな日々は、水分をあまり要しない多肉植物への水やりすらもいい加減にしてしまう。マルチタスクが苦手なようで、また、あの多肉植物に抱いていた愛はその程度のものだった。枯らしたら、1週間もしないで忘れてしまうと思う。しょせん家族が頼んでもないのにお土産で買ってきてくれた小さなポットだ。水のやり方を調べて私なりに丁寧に育ててきたが、初めての多肉植物栽培は困難が多く、あまりうまくいったとは考えられない。

多肉植物を枯らした(まだ枯らしてはいないけれど)、という事実すら、きっと2022年に持ち越すことなく忘れてしまう。この数か月、なんでもかんでもサクサク忘却してしまう。でも上司のさらに上の人が私にくれた「あなたの上司は忙しい人だからあなたがたすけてあげてくださいね」と「MNY TNKS」は忘れることなんてできない。

病死した身内は寂しがりやで猛烈に働く人で、無邪気でわがままだった。納棺のときに頭部にごみが落ちていたので拾い上げようとしたところ失敗した。毛髪で、皮膚から離れなかったのだ。彼は禿げていたが、完全に髪がないというわけではなかった。葬式の一同が笑いをこらえる妙な空気に包まれていた。

ファンシーショップの前にあったのは別のアニメショップだったことを思い出した。

めでたい。

忘却は罪。

明日も誰かの行動や言葉を胸に刻んで、できるだけ罪を犯さずいろんなことをこの胸と思考回路に刻み付けたい。誰かが私のことをどこかで覚えていてくれますように。

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