4,5月の振り返りと6月にやりたいこと
5月は絵に描いたような五月病になっていて、毎月書いていた振り返りnoteも書けなかったので、まとめて書く。
まだ5月もあと3分の1はあるけれど、このまま5月を続けると何もできずに終わるパターンなのでもう5月は終わりで次の月に行くことにした。
4,5月の振り返り
アクターネットワーク理論
大学も始まり、もう2ヶ月経った。
今年は修士2年なので、修論を書かないといけない。
7月には中間報告会があり、6月には中間報告のための報告会があるので、それの準備が大変そう。
今学期とっている授業は全て文献購読ゼミ。
特定分野の論文を読んでいくものと、一冊の基本文献を半期かけて読むゼミと2種類ある。
一冊の文献を読むゼミでラトゥールという社会学者?(人類学者、哲学者?)の文献を読んでいるが、これがなかなか面白い。
ラトゥールは、「アクター・ネットワーク理論(ANT)」という理論で有名な人で、少しずつこの理論は流行っているらしい。
基本的に人文社会科学は、人間を中心に考える。
現代は「社会構築主義」的な考え方が主流で、これは簡単に言えば、「社会の中で常識として考えられているものは本質的にそうであるわけではなく歴史的にたまたまそうなっているだけで、絶対的ではない」というもの。
例えば、発達障害が障害であるといわれはじめたのは最近になってからで昔はただ「変わった人」というだけで「障害」ではなかったということが言われたりする。
つまり、人間がどう見てどう判断するのかという観点が現実の価値判断を構築しているんだと考えるのが社会構築主義。
社会構築主義の人間(社会)中心的な考え方に対して、ラトゥールらのANTは、ヒトとモノとの対等に捉えてその関係性を考えると説明される。
障害の話で言えば、社会構築主義が人間の見方によって障害が作られると言っていたのに対して、ANTは人間とモノの関係性の中から障害が発生すると考える。
ちょっと、わかりやすく説明できるほどまだANTについて理解できていないのだけれど、このネットワーク的に考えるという方法は一ついろいろな面でヒントになるような気がしている。
特に、当事者研究は何をやっているのか、当事者研究では何ができているのかということを考える時には、ANTの考え方はとても使えると思うし、最近流行っている中動態という概念にも近いと思う(中動態もANTもドゥルーズの影響が大きいのでドゥルーズ的なものなのだと思うけれど)。
ただ、これはすごい!!と手放しに感動しているわけでもなくて、正直言っていることは分かりそうだけれど結局何が言いたいのかよくわからないというのが、今のANTに対する感想ではある。
もやもや。
これは中動態にも感じていることだから、ドゥルーズを読めば少しスッキリするのかもなと思いつつ、そんなことをしている余裕はない。
ふーん。で?
この前、友人と久々に会って色々話していたときにその人が
「哲学者とか学者の話って、ただただ考えすぎって感じがする。普通の人に「ふーん。で?」って言われたらそこで終了だよね」
ということを言われた。
正直梯子を外された感じがして、「え?」っていう感じで真面目に色々考えている人に対してなかなか大変な主張だなと思ったけれど、翻って考えてみてこの種の発言に対してどう返答すればいいのかがよくわからなかった。
最近の人文系の話は、「社会のいびつさ」とか「個人の生きづらさ」みたいなものから考え始めるというところが多いのではないかと思う。
生きるためには考えざるをえないという人が中心で考えているというところがある。
そうなると、別にその点についてそこまで考える必要なく生活ができる人から見れば、「ふーん。で?」としか思えないということは理解できる。
別に生きづらくなくても考えているという人もいるだろう。
どちらにせよ、何かしらの対象について、何かしらの現象についてある程度の深さで考えるということをしている人は「ふーん。で?」という態度に対してどう返答するだろうか。
「ふーん。で?」と言われることに対してこんなにも“もやもや感”を感じるのはなぜだろうか。
例えば普段の皿の洗い方について何かしらのこだわりがあって、その手順について熱弁したときに「ふーん。で?」と言われると確かにイラっとするかもしれないが、このときに感じるイラっと感とあの“もやもや感”は何か違う気がしている。
皿の洗い方に関しては、究極的にはどんな洗い方をしてもいいわけで「人それぞれ」な話なのだろう。
一方で、ある生きづらさとか歪さとか普段感じる違和感を考えることは「人それぞれ」なことではないような気がしている。
だからこそ、「ふーん。で?」という形で相対化されて「私にとってはどうでもいい話」とされるのがもやもやするのだろうか。
しかし、それはそれで傲慢な感想なような気もしている。
「私の考えていることはあなたにも関係のあることであなたも考えるべきなのだ」という考え方は、それはそれで違う。
マイノリティ論などでは、マイノリティの感じる生きづらさはマジョリティが関心を持って取り組まなければ解決することが難しいという話が出てくることがある。
ジェンダー問題で言えば、女性差別の問題は男性が変わらなければ解決しないということは割とよく聞く。
一方で、マジョリティの方は生きづらさとかを感じていないし、現行のままで特に不満はないから変わる必要も変える必要もないし、そもそもマイノリティ自体を認識していないということがある。
そういうときに、マイノリティ側はマジョリティ側に対して自分達の生きづらさや考えていることを訴えることで改善を図ろうとする。
そのような働きかけに対して、マジョリティは「ふーん。で?」という態度でマイノリティ側の訴えを相対化することができる。
それは、マジョリティが力を持っていてわざわざマイノリティの主張を正面から扱う必要がないから。
だからこそ、マイノリティはマジョリティに対して「特に何も考えずに生きることができるのはあなたたちが恵まれているからだ」という批判をする。
私は自分が考えていることに対して「ふーん。で?」という態度を取られたときに「いや、あなたがそうやって相対化できるのは、あなたが恵まれているからですよ」ということはできない。
それは、そもそも私がマイノリティであると思っていないし、相手が恵まれているとも思っていない(そもそも相手のことはわからない)から。
相手のことをぬるま湯に浸かって生きてきたんだろうと判断することは、短絡的で暴力的だ。
このことは別に今のマイノリティ運動のマジョリティ批判の戦略が間違っているということを言いたいわけではない。
端的に自分はその戦略を使うことはできないし、使えばおかしなことになるというだけ。
そもそも「ふーん。で?」という反応に対して私の感じる“もやもや”や動揺はマイノリティ−マジョリティの二項対立からくるものではない。
では、このもやもやは何か。
ずっともやもやしている。
6月にやりたいこと
やりたいというより
やりたいことと言ってもほとんどやらなければいけないことに近い。
やらなければいけないことだからこそ、やるのがめんどくさい。
7月半ばに修論の中間報告会がある。
そのために、修論の全体像の予定を作り上げないといけない。
そしてそもそもその中間報告会の準備のためのプレ報告会が自分が出ているゼミで6月半ばにある。
だから実質そこまでに修論の中間報告を作らないといけない。
ほとんど全ての時間はそれに使わないと間に合わないと思う。
リズム
5月は整いつつあった生活リズムがまた崩れてしまっている。
生活リズムが崩れると全てのリズムが崩れる。
「リズム」というキーワードは最近興味を持ち始めているテーマの一つ。
「リズムに乗る」という状態はまさに中動態的な状態だと思う。
やらねばならないことをリズムを意識しながら生活したい。