学校教育とは


 好きというより、たぶんこの事を考えるのをただ好んで続けてきたので、ちょっと文章にして人に伝えるものとしてまとめてみたいと思う。

 ところで、学校教育とはーって、なんだか学校教育についてハウツー本よろしく「〇〇はこういうものです」と判を押すようなニュアンスを感じてしまって好きじゃない。要は「〇〇とは」といった時に、既にそれぞれの頭の中にある地図(これこれはこういうものだ、というような)を無遠慮に上書きするようなものではなくて、むしろ各人の意識体系にこっそりと忍びこんで何かしらの変化をきたし得るようなものであった方が良いと思うので、この文章から「じゃあ、こういう時にはこうすれば良いわけだ」といった明確で分かりやすいものを期待せずに読んで頂けるとありがたい。

 よく「叱らない」とか「褒めない」といった種類の教育本を見かけるけど、これがある一定の視点によって教育を切り取って「叱らない」なりなんなりといった答えを導いている場合、現実的には教育という多面体について全面的な答えを見出すことはできない。「そういう視点のそういうやり方もある」といった論旨で語ってくれるのであれば害はないのだけど、アドラー的にこう考えられるから褒めるべきじゃないとか、行動変容の基礎はこうだから叱るべきじゃないとか、断定的な結論に達するような話はだいたいにおいて論拠が明確で、その筋を補う多彩な情報をちりばめて内容を豊富にしているので、読み手としては得られる新しい知識も多いし、分かり易くて(その知識がもれなく一定の視点に依る主張に還元されるので)、そのために説得力がある。そのような弁証法はとくに何かを主張する場合には避けられないものだけど、問題はその主張が均衡を保っているかどうか。例えば実際に全く叱られなかったり、褒められなかったりした子供がどのように育つのか想像してみると、彼らは一方では非難されることへの耐性を身につけることなく社会に出ていく事になり、また一方では人に褒められる事の規準を知る経験をせずに育つ。つまりあらゆる良し悪しは自分に委ねられ、これに善悪を当てはめるとちょっと怖い。人が人の道を踏み外すような人格をなるべく身につけないよう、時に叱ったり、時に褒めたりして道を示す必要がある。「叱らない」とか「褒めない」といった種類の論はすべて、今は「あえて叱らない」とか「あえて褒めない」といった選択肢の一体系を示すだけで、それは教育という関心事の全体の内に還元されなければならない。偏った考えは誤った結果をもたらす事を私たちは経験的に知っている。だからこそ、あらゆる考察は言動として表れる一歩手前でいくらかの幅を持ったバランスに優れたものであった方がいい。

 題を変えて再稿します。

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