ある書道家の災難【#秋ピリカ応募】
「……ということで、先生に来ていただいたんですよ」
目の前で“ぷろぢゅうさあ”とやらが説明しているが、わしの耳には入ってこない。
この大御所書道家・阪角斎 筆五郎、一生の不覚。
わしは今、猛烈な便意に襲われておる。
腹が、痛い。人生でこんなにも御手洗に行きたいと思ったことはないくらい痛い。今、わしの体内では、さっき食べた“ぺぺろんちいの”とやらが暴れておる。ぐぬぬ、あんな脂っこくてハイカラな物、食べるんじゃなかった。息もくさいし。
「今回発見された文書なんですが、レプリカも用意しています。先生にはレプリカの方をお渡しするので、これを見ながら一筆書いていただければと」
なんでも、“ぺりい”の詠んだ俳句が書かれた半紙という、非常に歴史的価値の高い文書が発見されたそうな。その内容をわしが巨大半紙に書き、ともに展示する。その一部始終に密着する番組らしい。
しかし、今はそれどころではない。もうお尻の先まで黒船が来航しておる。一刻も早く御手洗に向かわなければ、わしの肛門は開国してしまう。
「こちらがその……先生、どちらへ?」
“ぷろぢゅうさあ”から受け取った“れぷりか”の紙を握りしめ、わしは楽屋を出た。奴はなにかごにょごにょ言っておったが、それは後回し。わしは脇目も振らず御手洗へ駆け込んだ。急いで、それでいてゆっくりと。
◇
幸い、御手洗はだれもおらなんだ。古い建物だから“うぉしゅれっと”はないが、用が足せればそれでいい。わしは脇の荷物置き場に“れぷりか”を置き、便座の上に跨った。
……
ふう、すっきりした。さて戻るか……
「あ」
そこにあるはずのものがなかった。手を伸ばしても、カラカラカラと虚しい音が響くだけ。
“といれっとぺえぱあ”が、ない!!!!!
なんということだ。これは非常にまずい。
わしの服装は着流し一枚であるからして、ちり紙も、ハンケチも、靴下さえもない。
万事休すか……そう思ったとき、脇の荷物置き場が目に入った。
いや、わしはまだ天に見放されてはおらん。
◇
ジャー……
一時はどうなることかと思ったが、なんとか死線をくぐり抜けた。
“れぷりか”は失ったが、またもらえばいい。
楽屋に戻ると、“ぷろぢゅうさあ”はまだいた。
「あ、先生。どちらへ行かれたんですか?」
「いやなに、腹が痛くてちょいと用を足しにな。それで、さっきの“れぷりか”なんだが……」
「そうでしたか。はい、これがレプリカです」
「ああ、ありがとう」
「それで先生、さっき渡した本物の文書なんですが、一旦こちらでお預かりしますね」
「え?」
「え?」
「い、今なんと……? 『本物の文書』と言ったか?」
「え、ええ。『こちらがその本物の文書です』と、先生がトイレに行く前にお渡ししましたよね。その後、先生は一目散に行ってしまわれたのですが……」
「……」
「阪角斎先生?」
「い、一生の不覚……」
(1161字)
※本作は、【秋ピリカグランプリ2024】の応募作品です。