プレゼント・ノスタルジー
母がスーパーへ買い物に行くというので、運転手を兼ねて同行した。うちの母は買い物に時間がかかるタイプなので、僕は単独で店内をウロウロするのがお決まりとなっている。
いわゆるウインドウショッピングが好きだ。スーパーでは、駄菓子や生菓子売り場を徘徊することが多い。好きなお菓子があるか、好きなキャラクターの食玩があるかなど、ウキウキしながらラインナップを眺めるのが楽しい。ほぼ未就学児から小学校低学年の行動である。小学29年生なのでしかたあるまい。
ウインドウショッピングといえば、特におもちゃ屋さんの中を歩くのが好きだ。
まずはトレカコーナーでポケモンカードの在庫状況を確認し、ゲーム売り場で新作ゲームや周辺機器をチェック、その後はポケモングッズにヒーローグッズ、レゴやパズルやボードゲーム、果てはなんだかよくわからん知育玩具に注目する。楽しい。楽しすぎる。これだけで1時間は楽しめるぞ。ただし、1円たりとも消費していないので、店側からは白い目で見られていることと思う。
おもちゃのラインナップ、これは年々進歩をしているように見える。僕が幼少の頃に比べると、明らかにハイクオリティだ。僕なんかは、腕のボタンを押すとピューンとパンチが飛び出すだけの簡素ギミックな戦隊ロボ(しかも合体と分離ができないやつ)などを買い与えられていたが、今の子たちはそんなちゃちいおもちゃなど目にもくれないのだろう。
だが、そういうちゃちいおもちゃでも、当時はそれなりに楽しんでいたと思う。もちろん合体・分離ができるDX大獣神とかDX大連王とかDX無敵将軍とかの方がよかったのは否定しないが、チープなおもちゃにこそ宿るノスタルジーというものが存在するのだ。
母や祖父が「アルロンはダイレンジャーが好きだから、ダイレンジャーのおもちゃを買ってあげよう」と思っておもちゃ屋に行き、でもDX大連王は高すぎるからより廉価な関連グッズに落ち着いたのかもしれない。ましてや高齢者に幼児の正解なんてわからないから、自分の想像で喜んでもらえそうなものをチョイスしたのかもしれない。悩みに悩んで選んだ結果、孫の期待に応えられず、泣かれ叫ばれ罵られ……というおじいちゃんおばあちゃんも多いのではないだろうか。
以前、母が孫(僕からすると甥)に誕生日プレゼントを贈るシーンに立ち会った。中身はなんてことのない、それこそスーパーで売っているような500円程度のおもちゃだった。
プレゼント受渡しの瞬間、僕は得体の知れないノスタルジーに襲われた。孫の喜ぶ顔がみたいけれど、なにを贈ればいいのかわからないばあば。ばあばにプレゼントをもらって嬉しいけれど、あまり自分の琴線に触れるものではなくて素直に喜べない孫。そのどちらの気持ちもわかるから、とても複雑な気分だった。
その得体の知れないノスタルジーを、今になって冷静に分析してみた。
たぶんだけど、プレゼントの中身で一喜一憂するのはあくまでも映像にすぎなくて、そこに介入している愛情こそがノスタルジーの正体なんだと思う。
「あれをもらって嬉しかった」
「これをもらって不満だった」
子ども心に芽生えた喜怒哀楽は、どんな感情であれ、贈り主の愛情を受け取った証なんだろう。
「プレゼントは贈る側の自己満足」というのが持論だ。受け取る側が喜ぼうと悲しもうと、少なくとも贈った時点で愛情は注がれている。なにを贈るかは二の次で、選ぶ過程が一番重要だと思っている。
プレゼント選びは悩ましくて、だけれどすごく楽しい。その時点で満足しているので、仮にあまり喜んでもらえなくたっていい。それだけに、喜んでもらえたときの感動は一入だ。
プレゼント選びに悩む人を見るのも好きだ。それが祖父母から孫に贈るプレゼントならなおさらだ。「お孫さん、喜んでくれるといいですね」と思いながら、ニヤニヤ顔を引っ込めて横を通る。これもまたおもちゃ屋のひそかな楽しみなのである。
だんだんと近づいてくるクリスマスの足音。どうかすべての子どもとすべてのサンタクロースに、愛情深き聖夜が訪れんことを。願わくば、筆者にも。