エッセイの定義を考えてみる
非常に興味深いnoteを読んだ。
『ナースの卯月に視えるもの』でお馴染みの秋谷りんこさん(11/6に2巻が発売されるので、みんな予約しような!)。なにやら、エッセイがなにかわからず四苦八苦しているそうで。それでコンテスト受賞するんだからすごいけれども。
僕はよく「noteでエッセイを書いています」なんて人に話すのだけれど、「エッセイってなんですか?」と聞かれると、しどろったりもどろったりしてしまう。言われてみれば、エッセイの定義は曖昧模糊としている。あいまいってたりもこってたりしている。
というわけで、自分なりにエッセイの定義を考えてみることにした。
まず、エッセイとは、ノンフィクションである。
実際に起きたこと、感じたことを書くわけで、空想の世界とは一線を画す。これはまあわかる。
そして、エッセイとは、日記ではない。これが難しい。秋谷さんも、ここの境界がわからないと書いている。
日記とはそもそもなんだろうか?
たとえば、
これはただの日記。事実とその感想だけだから。
この日記をエッセイにするには、どうすればいいのだろうか。
エッセイの書き方みたいなものをいくつか読み、自分なりに学んできた中で知った、一つの方法がある。
それは、事実と思考とを結びつけるということ。
先の日記だと、ラーメン屋に行ったときの思考をもう少し深く掘り下げる必要があると思う。
以下はあくまでも一例だが、
久しぶりのラーメン屋→気分が明るくなる→美味しい物はメンタルに良いのかもしれない
お気に入りのラーメン屋にはいつも行列が→なぜ人は並んでまで食べたいのか→「待つ」というネガティブな行為によって「食べる」という行為がより楽しくなるのかもしれない
ここのラーメン屋はオシャレで静かなのでカフェみたい→店を見回すと若い女性が一人で座っているのが多く見受けられる→若い女性が一人でも入りやすいのをコンセプトにしているのかもしれない→一人でゆっくり食事をするのは貴重な一人の時間として大切なのかもしれない
といった具合だろうか。
では、これらの思考の結論だけがあればいいのだろうか。
たとえば「美味しい物はメンタルに良いのかもしれない」という思考の結論だけでは、根拠がないので感動が薄い。
実際に自分のお気に入りのラーメン屋に行って、大好きなラーメンを食べて、ものすっごい幸福感に満ちて。
その上で「美味しい物はメンタルに良いのかもしれない」と言った方が、読んでいる人には感動が伝わりやすい。
事実だけではただの記録だし、思考だけでは求心力がない。
事実という肉体に、思考という血流を巡らす。そしてその二つのかけ合わせによって、読んだ人に感動(笑い、泣き、驚き、スリルなど)を与える。
それが、エッセイの主軸なのかもしれない。
とまあ、えらそうに書いたが、実際のところ僕のエッセイ(と呼んでいるもの)がすべてこのとおりに書けているかどうかは、甚だ疑問である。というか、書けていないわ。日記になっているものもあれば、思考の垂れ流しだけというものもあるから。
繰り返しになるが、これはあくまでも“自分なりに学んできた中で知った方法の一つ”である。ほかにも方法や考え方はいろいろあるだろうし、これが正しいかどうかもわからない。この記事自体、もはやエッセイかどうか怪しいところである。
ただ、自分がなにを書いているか、少し客観的に考える機会となった。こういうことでもなければ、あまり定期的に振り返らないタチなもので。
なんでもかんでも定義づけすりゃいいってわけではないけれど、一つのヒント的なものになれば幸いである。