「ないものねだり」より「あるものほこり」
今日もnoteを開く。
noteには、いろいろな人がいる。面白い人、優しい人、頭のいい人。中には変な人もいるけれど(いるのかい)、こちらのメンタルをゴリゴリに削ってくるような危ない奴はほとんどいない。
少なくとも僕の目の届く範囲では、素晴らしいnoteクリエイターであふれている。今日も素敵な作品たちが、トトロによって芽吹いた植物のようにポコポコと生み出されていることだろう。
このnoteという場で精力的に投稿するようになって1年半ほどになる。たくさん書き、個人企画なんかも行なった。たくさんの作品に触れ、たくさんのクリエイターと交流した。ありがたいことに、フォロワーやスキ、ビューの数も増えた。いくつかコンテストで賞もいただいた。
充実しているし、とても楽しい。
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楽しい一方で、ものすごく素晴らしい作品に出会うと、複雑な気持ちになる。もちろん「めちゃくちゃ面白かった!」と感動するのだが、それはあくまでも読者としての感想だ。
これが物書きとしての感想となると、「く、くやしい……!」とか「ぐぬぬぬぬ」とか「むきー!」とか「ぎゃふんぎゃふん!」とかになる。
そうなるとけっこう面倒なことになる。普段はあまり気にしないフォロワー数やスキ数、「今日の注目記事」に選ばれたかどうか、Xでシェアされたかどうか、いろいろな要素が気になって気になって…………むきー! ぎゃふんぎゃふん!
このように、元来のネガティブが発動して落ち込んでしまう。
僕は、天才ではない。少なくとも、「文章を書く」という行為においては、類まれなる才能を授かったとは思っていない。
じゃあ凡才かと聞かれると、そういうわけでもないと思っている。経験を重ね、学び、書いてきた自負はあるし、それなりに結果も出ている。まったくの才能なしではない(と信じたい)。
それに、凡才なら毎日投稿365日なんて無理だろうし、そもそも文章を書くこと自体が苦痛な人もいる。そう考えると、自分のことを一概に凡才と卑下するのは違う気がする。中途半端な才能の持ち主だ。
昔の僕なら、ここでニヒルなキャラを演じていただろう。「おれのような凡人と、あんたらみたいな天才を、一緒にすんじゃねぇよ」と吐き捨て、ぼさぼさの前髪をかき分け、無造作にタバコの先に火を点け、才能あふれる人たちを冷ややかな目で見下していたに違いない。いや、タバコは吸わないんだった。
ところが、僕もそれなりに成長したのか、以前よりも俯瞰的に、冷静に考えられるようになったようだ。
自分には自分のやり方がある。それは選択肢を狭める意味ではなく、いたずらに他者を意識しないためのテクニックのようなもの。「ないものねだり」ではなく「あるものほこり(誇り)」を意識できるようになってきた。
他人と比べず、されど他人から学び、自分の才能を信じ、されど過信はせずに努力を続けるべし。そんな考え方にシフトできるようになってきた。
不要な情報を遮断することは、意外と難しい。それを少しだけでもできるようになると、モチベーションの維持につながるのではないだろうか。
僕のnote道は、勾配がきつく、くねくねと続き、泥に足を取られる悪路だ。よく躓くし、転ぶし、ぜーはーぜーはーするし。
でも、この道を進むのが今は楽しくてしょうがない。泥臭くてもいい。泥臭いのがいい。ひたすら前を見て、自分の道を進んでいく。
そうやって苦しさも楽しみながら、今日も明日も明後日も、noteを続けていこうと思う。
……で、また素晴らしい作品に出会ったら「✨に戻る」を繰り返すんだろう。ぎゃふんぎゃふん。