『最後の客』池田久輝(朗読用台本・無料利用可)
小説家 池田久輝(第五回 角川春樹小説賞受賞作家)が朗読文化発展のために、無料で提供する朗読用台本です。
配信、イベント等での朗読台本として無料でご利用いただけます。
利用の際はこちらをご一読ください。
『最後の客』
雨が降り続いていた。男はカウンター席でコーヒーを飲みながら、窓の外の薄暗い田園風景を眺めていた。「オルガのレストラン」という名の店だった。
男はちょっとした旅の途中であった。目的地はもう少し先だったが長雨にうんざりしており、何もない田舎道にぽつんと現れたこの店に車を止めたのだった。極端に客が少ないという点を除いて、これといった特徴のないさびれたレストランだった。
「あんた、見ない顔だね。旅行かい?」
あごひげをたくわえた中年の店主が言った。着用しているコックコートはくたびれて黄ばんでいるが、彼の顔はどことなく楽しげに見えた。話し相手ができて喜んでいるのかもしれなかった。
「おれはブルーノ」と、店主が名乗った。
「――まあ、旅行みたいなものかな」と、男は答えた。「ところで、きみがブルーノだとすると、店の名前のオルガというのは誰なんだろう? 君の奥さんかな」
「娘だよ」ブルーノは笑顔で肩をすくめた。「オルガは街で暮らしている。ここを出てから七年が過ぎた。もう二十五歳になったよ」
「きみは街へ行かないのかい? 都会で店を開いた方が客が来る。ああ、失礼な言い方だったかな」
「いいや」
ブルーノはおどけたように首を横に振ると、ゆっくりと窓の外へと視線を流した。そして、窓に切り取られた灰色の風景に向かってぽつりと言った。
「なあ、こんな田舎を訪ねて楽しいか?」
「どうだろうな。楽しいはずだと思って車を走らせてきたんだが」
「今のところは?」
「愉快な気分とは言えないな。この雨のせいで」
「なるほど」
ブルーノは妙にすっきりしたような顔で頷くと、そばに置かれていた木箱を引き寄せ、慣れた感じでそこに腰を落とした。
「実は娘に言われているんだ。街で一緒に暮らそうってね。妻とは遥か昔に別れたから、おれの家族は娘だけだ。あんた、どう思う?」
「どう思うって、どう答えて欲しいんだ?」
ブルーノは苦笑とともに一つ息を吐くと、満足げにコックコートのボタンを外し始めた。
「もうこの店を閉めるんだ。あんたがきっと――最後の客になる」
男は驚いたが、店主の表情が晴れやかに見えたのはそのせいかと納得した。
娘のために田舎を去る者もいれば、都会に嫌気がさして田舎へ向かう者もいるということか――。
男はこのレストランに入ってから初めて笑みを浮かべた。
「この店の最後の客として、私に何かできることはあるかな」
コックコートを脱ぎ終えたブルーノは、軽く腰を伸ばしながら明るい声で言った。
「そうだな、まだ時間はいいのかい? だったら、オルガのこと、そして、あんたの旅について話すってのはどうだ――雨が上がるまで」
(了)
*この作品は「第二回 U35 京都朗読コンテスト」の一次予選の課題テキストとして使用。
小説家 池田久輝(いけだひさき)
2013年、『晩夏光』にて第五回角川春樹小説賞を受賞。翌年には続編となる『枯野光』を発表(角川春樹事務所)。 以降『まるたけえびすに、武将が通る。』(幻冬舎)、『虹の向こう』『ステイ・ゴールド』(双葉社)などを上梓。 2017年には、『影』が「日本推理作家協会賞短編部門」の候補作となる。2023年8月、最新刊『警官は吠えない』が小学館文庫より刊行。
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