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『向こう岸の伝説』池田久輝(朗読用台本・無料利用可)

小説家 池田久輝(第五回 角川春樹小説賞受賞作家)が朗読文化発展のために、無料で提供する朗読用台本です。
配信、イベント等での朗読台本として無料でご利用いただけます。
利用の際はこちらをご一読ください。

『向こう岸の伝説』

「あんたもその口かい?」ふと、声が下から浮いてきた。「俺、あんたのこと知ってるよ」。
 その声の主は船に乗っていた。さびの浮いた古くさい小船。浸水しない方が不思議といったような代物である。彼はその舳先から声を揺らせた。
 私も彼のことを知っていた。ここでよく見かける船頭の一人だ。日に焼けた肌からは年齢が分からなかったが、どうやら思っていたよりも若いらしい。私は彼に向かって曖昧に微笑み、答えを濁した。
「あんた、何日もそうやってこの川を眺めてるだろ。俺、こう見えて記憶力はいいんだ」
「そうか。で、その口ってのどういう意味だ?」
 私はそう訊ね返した。が、私はその答えを知っていた。
 噂だ。この地で何度か耳にした噂のことである。
 ――この広大な川の向こう岸に黄金が眠っている。
 私のような外の人間にとってみれば、とるに足りない「噂」に過ぎないのだが、この地の者にとってはある種の「伝説」としての色合いが濃いらしい。嘘だと疑いながらも、どこかで信じている節が見受けられる。
 この船頭もその一人なのだろうか。そんなことを思いながら私はまた笑みを浮かべた。
 彼はきょとんとしたような表情を寄越し、白い歯を零した。
 素直な男だ――多分、伝説を信じられるほどに。
 黄金か。私は小さく呟く。確かにここにはそんな匂いが漂っている。遥か西方から流れ込んできた文化や街並みを見ると、そんな伝説の一つや二つが転がっていても不思議はない。彼らが伝説を自然と受け入れたのも分かるような気がする。だが、黄金というあたりがどうにも古くさく感じられ、まったく別の時代にやって来たような感覚に陥るのだった。
「向こう岸には本当に黄金が眠っているのかな?」
 私が訊くと、彼は晴れやかに頬を緩めた。
「ほら、俺の言った通りだ。やっぱりあんたもその口だ。答えを知りたいか? だったら俺を雇ってくれよ」
 なるほど、彼らはそうやって稼いでいるのか……。
 私はなんとなく想像していた。この噂、いや、この伝説を産み出したのは彼ら船頭連中ではあるまいか。自らの商売のため、そして、これからも続く日々の生活のために……。
 だとすれば、向こう岸に黄金などない。そこに存在するのは彼らの真実だ。
 この伝説にはきっと彼らの日々の真実が隠されている――なぜかそんな気がして仕方なかった。
 私は告げた。
「君を雇おう。君の船に乗ろう」
「そうこなくちゃな」
 彼はそう言って右手を差し出した。
 
 さて、私はここで真実を見つけ出せるのだろうか。
 伝説へと向かう船は黄金色に染まった大河を渡り始める。

(了)

*この作品は「第一回 U35 京都朗読コンテスト」の一次予選の課題テキストとして使用。

小説家 池田久輝(いけだひさき)
2013年、『晩夏光』にて第五回角川春樹小説賞を受賞。翌年には続編となる『枯野光』を発表(角川春樹事務所)。 以降『まるたけえびすに、武将が通る。』(幻冬舎)、『虹の向こう』『ステイ・ゴールド』(双葉社)などを上梓。 2017年には、『影』が「日本推理作家協会賞短編部門」の候補作となる。
池田久輝の公式 X(旧Twitter


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