『ロンヴィル』(朗読用台本・無料利用可)
小説家 池田久輝(第五回 角川春樹小説賞受賞作家)が朗読文化発展のために、無料で提供する朗読用台本です。
配信、イベント等での朗読台本として無料でご利用いただけます。
利用の際はこちらをご一読ください。
『ロンヴィル』
イーサンはふと足を止めた。一軒の店の前だった。開け放たれたドアを囲むように外壁には青いタイルが貼られている。しかし、その青はすっかり色褪せ、ところどころ欠け落ちていた。古びているというよりも、朽ちかけているという印象の方が強かった。
イーサンは店の中を覗き込んだ。バーだろうか。手前にカウンター席があり、その奥にアップライトのピアノが置かれている。今、一人の女性がそのピアノを弾いているところだった。
「ああ、いらっしゃいませ」
気配を感じたのか、彼女は鍵盤から指を離して振り返った。店内に差し込む光は弱かったが、ぼんやりと彼女の姿を浮かび上がらせていた。思っていたよりも若い女性だった。
「お客さんが途切れたので、ちょっとピアノを」
彼女が恥ずかしそうに微笑んだ。多分、ピアノは初心者であろう。言っては悪いが、彼女の演奏はたどたどしいものだった。
「きみがさっき弾いていた曲だけど――」
「え、聴いていたんですか」
「もしかして、きみはロンヴィルの出身かな?」
「いえ、違いますよ」
「じゃあ、どうしてあの曲を知っているんだろう」
彼女が奏でていた曲――それは故郷の村〈ロンヴィル〉に伝わる曲であった。だからこそ、イーサンはここで立ち止まったのだ。
「僕の故郷なんだ。とても小さな村で、人口は五百人程度だった。ただ、それはもう数十年も前の話だから、今はもっと少ないと思う。下手をすれば誰も残っていないかもしれない」
村の中央広場には、大きな石造りの噴水があった。それがロンヴィルの象徴でもあった。四方に山々がそびえているため、水源が豊かだったのだ。
だが、きっと今はあの噴水の水も途絶えているだろう。イーサンが村を去る時にはもう枯れかけていたのだから。
「オーナーですね」と、彼女が明るい声で答えた。「この店のオーナーがそこの出身なんです。さっきの曲も彼から教えてもらいました」
驚くと同時に、イーサンの胸にじわじわと込み上げてくるものがあった。こんなところに同郷の人間がいたとは……。
「オーナーに会えるかな」
「ええ、自宅に行けば。かなり高齢なので、たまにしか店に来ないんですよ」
彼女は少し寂しそうな表情を見せたあと、そこに優しげな笑顔を重ねた。
「オーナーはこのピアノでよくあの曲を弾いていました。わたしよりちょっとだけ上手いくらいですけどね。村は消えても音楽は残る――それが口癖で」
イーサンはぐっと息を飲み込んだ。
村は消えても音楽は残る、か。
確かにその通りだった。故郷を去ってから数十年が経つというのに、あのメロディを覚えていたのだ。高揚するような曲ではない。どちらかといえば陰気で単調な曲である。それなのに、ほんのワンフレーズを耳にしただけで、イーサンの体はすぐに反応した。
「もう一度、弾いてもらえないだろうか」
「え? わたし、まだまだ下手なのに」
「そうかもしれない。でも、きみの演奏を聴いて、僕にはロンヴィルの村がはっきり見えた」
そう、あの美しい山々も、高く吹き上がっていた噴水も、はっきりと。
「それは――再会の曲なんだ」
彼女は一つ頷くと、再びピアノを前にした。
ぎこちない指が鍵盤の上を滑りはじめる。
イーサンは朽ちかけた青いタイルを眺めながら、ゆっくりと目を閉じた。
(了)
*この作品は「第三回 U35 京都朗読コンテスト」の一次予選の課題テキストとして使用。
小説家 池田久輝(いけだひさき)
2013年、『晩夏光』にて第五回角川春樹小説賞を受賞。翌年には続編となる『枯野光』を発表(角川春樹事務所)。 以降『まるたけえびすに、武将が通る。』(幻冬舎)、『虹の向こう』『ステイ・ゴールド』(双葉社)などを上梓。 2017年には、『影』が「日本推理作家協会賞短編部門」の候補作となる。2023年8月、最新刊『警官は吠えない』が小学館文庫より刊行。
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