『南の森に消える』池田久輝(朗読用台本・無料利用可)
小説家 池田久輝(第五回 角川春樹小説賞受賞作家)が朗読文化発展のために、無料で提供する朗読用台本です。
配信、イベント等での朗読台本として無料でご利用いただけます。
利用の際はこちらをご一読ください。
『南の森に消える』
ある青年が南の島へ旅をした。
旅人の誰もがそうであるように、彼は様々な風景と出会い、色とりどりの食事を楽しみ、いくつもの楽しげな表情を目の当たりにした。そして、そのどれをも見逃すまいと目を凝らし、記憶に刻み込んだ。ごくごく普通の旅――そうなるはずだった。
彼の足が不意に止まったのは四日目のことだった。風に溶かされたような街並みを抜けると、ふと目の前に森が現れた。鬱蒼としてはいるが、それほど大きいわけではない。南国特有の鮮やかな緑が印象的で、柔らかな半円を描いている。
青年はその奥深くへと入って行く。しかし、なぜこんなところに森が……。
まさか導かれた? いや、そんな馬鹿な。青年は苦笑を浮かべる。
と、急に視界が開けた。川だった。簡単に向こう岸へ渡れそうなほどゆったりとした流れである。青年はその川辺に腰を下ろして一息ついた。両手で水をすくう。そのまま顔を洗い、汗を拭った。
――はっとした。
視線の先にまったく知らない顔があった。少年だろうか? 緩やかな水面に見覚えのない少年の顔が映っていた。これは一体……。
「どうかしたのかね」
突然、頭上から声が降ってきた。青年は飛び上がりそうなほど驚いた。声の主へと慌てて目をやる。背の低い老人だった。白いシャツの上に日に焼けたしわだらけの顔がのっている。しかし、この老人の顔はさきほど水面に映っていた少年らしきものとはまったく異なっていた。
辺りを窺った。他に人はいない。この川辺には青年と老人の二人だけである。では、あの少年の顔は……青年はじっと老人を見つめた。
「あんただよ」と老人がにっこり笑った。「不思議に思ったかね。水面に映った顔を」
「え? いや、その……」
「この川はね、あんた自身を映すのだよ」
「僕自身を?」
「ああ、その通り」
「ちょっと待ってください。何を言ってるんですか。あの顔は僕とは似ても似つかなかった。第一、僕には少年に見えた。年が違い過ぎます」
「いや、間違いなくあんただよ。私はそれを知っている」
「知っている? 何を知っているんですか? 僕はあの顔を一度も見たことがない」
「では、誰だったのだろうな。あんたが目にしたあの顔は」
「それは――」
と言って青年は口を噤んだ。あの顔は自分ではない。もちろん、少年時代の彼自身でもない。そして、目の前にいるこの老人のものでもない。それは確かだった。
青年は再び川を覗き込んだ。おそるおそる、ゆっくりと。
――息を飲んだ。やはり、まったく見知らぬ少年の顔だった。
老人は複雑な思いでこの青年を眺めていた。青年は長い間、水面を見つめ続けていた。目をみはり、ぽかんと口を開け、呆然とした表情を浮かべている。
しばらくして青年は立ち上がった。ふらふらとした足取りで歩いていく。
老人はその背中を黙って見送った。青年が森の中へと消えるまで。
――そう、私は知っている。
老人は一つ息を吐く。そして、あの青年がしていたように老人も川の流れを覗き込んだ。もう何度目になるだろうか。そこには相変わらず、自分の顔ではないまったく知らない別人のものが映っていた。
老人はぽつりと呟いた。
「次はこの人物に生まれ変わるのか」
(了)
*この作品は「第一回 U35 京都朗読コンテスト」の一次予選の課題テキストとして使用。
小説家 池田久輝(いけだひさき)
2013年、『晩夏光』にて第五回角川春樹小説賞を受賞。翌年には続編となる『枯野光』を発表(角川春樹事務所)。 以降『まるたけえびすに、武将が通る。』(幻冬舎)、『虹の向こう』『ステイ・ゴールド』(双葉社)などを上梓。 2017年には、『影』が「日本推理作家協会賞短編部門」の候補作となる。
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