『失われたものたちの本』を読む
ジョン・コナリーの『失われたものたちの本』という小説を読んだ。面白かった。僕はかなり感動させられた。だからそれについて書く。
これは物語の本質とは何かということを喝破した者の手によって書かれた本だ。したがって読み解く側にも同じだけの知見が求められると言っていいだろう。
以前述べたことをここで繰り返すが、物語とは嘘のことである。物語のレトリックや語り口などには大した意味はない。嘘、それも「物語的な嘘」にこそ物語の真の力は宿る。
「物語的な嘘」は現実とは違うことを語るものだ。それはどういうことか。
まず前提から話していくと、ここで想定される現実とは、辛い出来事を指している。人から殴られたこと、正しいことを主張したのに間違いだと言われたこと、大切な人が理不尽な出来事で死んでしまったこと、そういうことを指す。
現実とは誰にとってもつねに厳しいものだ。それは我々の考えていること、つまり「こうであって欲しいな」という願いをいつも裏切ってくる。こちらの思い上がりをただし、鼻っ柱を折ってくる。人と喧嘩しても勝てない。知恵はどうも他人より回らぬらしい。金はないのであれもこれも買えない。理想の異性はあらわれない。願いはかなわない。そして最後には必ず死が待ちうけており、我々のすべてを粉砕してくる。しかも我々は、一切が無に帰することを知りながら生きなくてはならないという、きびしい重荷を課せられている。ねじくれ男が終盤で言っていることはそういうことである。
物語は、このような恐ろしい現実と切実な個人の願いとが衝突し、のっぴきならない状況に陥ったところに発生する。両者を和解させ、なんとかこれで勘弁できないだろうか、と人をなだめるために存在する。現実の側は一歩もゆずってくれないから、そこにおいて可能なのは人間側の妥協だけである。
「物語的な嘘」とはそういうことだ。だから物語の中においては、男は女に対して紳士的にふるまい、守らなければならない。夫は妻を愛し、妻は夫を尊敬しなければならない。悪者は善人の手によってこらしめられ、正義は存続しなければならない。そして兄弟同士は助け合い、特に兄は弟や妹を守らなければならない。物語はそうした規範、あるべき善の姿をストーリーの形で実現させる。
『失われたものたちの本』における子供と大人の定義の境界は、ここにある。たとえ嘘だと分かっていても現実に向かって、「物語的」な態度をとること。それこそがあるべき大人の姿なのである。このことを理解した上でデイヴィッドの父親の発言を思い返すと、それがいかにもあるべき大人の在り方を示していると分かるだろう。デイヴィッドがローズが太ってきたことを父親に言うと、父親は慌てて「ローズの前でそんなことは言ってはいけないよ」と注意する。そしてデイヴィッドがローズに対して心ない態度をとると、厳しく叱るのである。しかしデイヴィッドは物語の終盤で成長を遂げ、ねじくれ男の問いに対して、「名前は『弟』さ」と返す。これはつまりジョージーは自分の弟であり、自分が守るべき存在なのだという主張である。デイヴィッドは最終的に「物語」の側に立つのである。
ねじくれ男は裏の物語、つまり悪の物語の象徴である。人間は汚れた存在であり、邪悪であり、物語に効力はないのだと信じる者たちのリーダーである。彼は悪を存続させるために奮闘する。そしてデイヴィッドを新しい悪の物語の中心に据えようとする。古い王から王位をデイヴィッドへ継承させようとするのだ。
ここで継承という大きなテーマが出てくる。それはなんだろうか。
ここまでの議論を振り返ってみて分かるのは、物語とは、物語的な嘘や善とは、人の努力によってのみ命脈を保たれるものだ、ということだ。それは科学ではない。哲学的な真理とも違う。絶えざる意志の力によってのみ保たれ、存続するものなのである。一度達成すればそれで終わりというものではない。しかし人は老い、やがては地上から去る。だから年長者は次の世代にバトンを渡し、ふたたび物語を紡いでいってもらわなければならない。文学にときおり継承というテーマが顔を出すのは、そのためである。『街とその不確かな壁』、『第九軍団のワシ』、『百年の孤独』などがそうだろう。
では、継承はどのようにして行われるべきなのだろうか。
実は、それは反発ということによってのみ正しく達成される。今の世代は前の世代のなした悪を指摘し、攻撃しなければならない。継承ということを否定するときにのみ、実はそれは正しく遂行されるのである。
そういう目で見ると、『失われたものたちの本』は正しくリレーのバトンを受け渡ししていると分かるだろう。デイヴィッドは前王のジョナサン・タルヴィーの悪事と弱さを断罪し、自分は王になんてならないと言う。そして現実世界に帰還し、家族に優しく接し、人生の不幸を噛みしめたあと、新たな物語を執筆するのだ。