見出し画像

三幕構成で小説を読み解く

アドベントカレンダー

この記事は「思想・哲学・文学・芸術の会」の2024年のアドベントカレンダーに沿ったもので、12/25に公開されたものである。

「思想・哲学・文学・芸術の会」の2024年のアドベントカレンダー

本文

三幕構成という物語の見方について書かれた記事がWikipediaにある。これはなかなかよくできた記事なので、僕は何度か読んでみた。それで学んだことや、三幕構成に対する自分自身の意見を加えたものを、本稿では書く。

本稿であつかう物語は次の4つの小説である。これらを実際に三幕構成にあてはめて読み解いていく。すでにブログ「Costa Rica 307」ではこれらの作品を個別に解説しているので、書名にその記事へのリンクを張っておいた。

失われたものたちの本

冒頭はセットアップである。セットアップで描かれるのは主人公の日常だ。『失われたものたちの本』では主人公と母親の暮らしが描かれる。

セットアップによって描かれた日常は、インサイティング・インシデントという非日常によって破られるであろう。インサイティング・インシデントは最初の重要なできごとだが、これは外部からやってくる。インサイティング・インシデントにおいては主人公に主体性はない。

『失われたものたちの本』では、インサイティング・インシデントは母の死である。病気という悪魔が外の世界から来訪してきて、母を奪い去っていったのだととらえられる。それは主人公と母の蜜月生活という日常をやぶる、非日常なのだ。

インサイティング・インシデントによってセントラル・クエスチョンが明確になることもあれば、ならないこともある。『失われたものたちの本』ではセントラル・クエスチョンは明らかにされない。なんにせよファースト・ターニングポイントまでにはセントラル・クエスチョンは明らかになるだろう。

さて、ファースト・ターニングポイントにおいては主人公の明確な意志が見られる。このとき、主人公ははっきりとセントラル・クエスチョンをさとり、敵対者を知る。『失われたものたちの本』におけるファースト・ターニングポイントは、異世界に行くことである。主人公は庭で死んだはずの母の声に呼ばれるので、彼は母に会うことを志して声にしたがう。すると異世界にたどり着くのである。このときセントラル・クエスチョンは「主人公が母に会うこと」に定まる。敵対者は母を奪った死をはじめとする、世の理不尽すべてである。なぜなら主人公は「死」に逆らって母に会いに行こうとするからだ。この「死」をはじめとする「理不尽」は、特に終盤においてつぎのように強調される。ねじくれ男が言うのだ。

「お前が必死に戻りたがっている世界の真実を教えてやる。あそこは、苦痛と苦悩と悲嘆の世界よ。お前が去ったあの夜、たくさんの街が攻撃を受けた。女や子供たちは、飛行機から落とされた爆弾で粉々に消し飛び、生きたまま炎に焼かれた。自分も妻や子供を持つ男たちがそんな爆弾を落としたんだよ。人びとは家から引きずりだされ、表通りで銃殺された。お前の世界は自分からすっかりずたぼろになっちまったわけだが、何より面白いのは、そのせいで戦前よりもいくらかましな世界になったってところさ。戦争は人間どもに、少しだけ正直になる口実を与えてくれたのさ、罰されることなく人殺しをするためのな。過去にも戦争なんざ何度でもあったし、これから先も何度でも起こるだろう。そしてその間にも人間は争い合い、傷つけ合い、痛めつけ合い、裏切り合う。それこそ人間がずっと続けてきた所業だからだよ。
 だが、もし戦争や争いごとで死なずに済んだしても、小僧、それで人生はお前のために何をしてくれる? お前だってもう、どんな目に遭わされるのかを知っているんじゃないかね。人生はお前のお袋を奪い去っていった。健やかさも美しさも吸い尽くし、干涸びて腐った果物のかすみたいにして脇に投げ捨てていった。お前の周りにいる他の連中だってそうなる、賭けてもいいとも。恋人も、子供も、お前が大切に思う連中はみな同じように道を転げ落ち、お前の愛情くらいじゃとても助けたりできるものか」

セントラル・クエスチョンは具体的でなければならない。なぜなら読者は「主人公ははたしてセントラル・クエスチョンを達成できるのか?」と興味を持って作品を目で追うからだ。また、遅くともファースト・ターニングポイントまでには敵対者との対立がさだまる。こうしてみるとターニングポイントとは「主人公が主体性を発揮する瞬間」だととらえられる。主人公は物語において、少なくとも二回は主体性を発揮することになるだろう。

ファースト・ターニングポイントを通過してからミッドポイントに到達するまで、主人公は色んな人の助けを借りながら楽勝のムードで困難を乗り越えていくが、ミッドポイント以降は状況が悪化していく。これが王道の構成である。ただしこのような「旅の難度」は、結局のところ個々の作品によってかなり様相が異なるようである。

『失われたものたちの本』では、主人公はミッドポイントに到達するまでにけっこうな苦難を味わう。その結果、主人公はミッドポイント通過後の苦難をほとんど味わうことなく、クライマックスへと突入する。これは、主人公がミッドポイント通過後の苦難を先取りしているのだととらえられる。この作品のミッドポイントは、騎士ローランドが死に、母と思われた魔物を自分の手で倒す場面である。騎士ローランドは主人公にとって理想的な父親像であるから、これによって彼は父親と母親の束縛を逃れ、精神的に自立していく。このミッドポイントから第二幕の終結まではそれほど長くない。『失われたものたちの本』は大体7割ぐらいのところにミッドポイントを置いている。

ミッドポイントが存在するのはなぜだろうか。なぜ典型的な構成においては、その点まで主人公の状況は好転していき、逆にミッドポイントを境にして悪化していくのだろうか。

それは、物語の構造、とくに成長物語につきものの核となる構造が由縁となっている。物語の主人公は通常、異なるふたつの方向の力によって引っ張られている。『失われたものたちの本』であれば人生の理不尽を否定するか、肯定して受け入れるか、である。他に例をあげるとすると、『金閣寺』の主人公は、美に陶酔している自分と、美と一体化できない自分とに引き裂かれている。

もしもこのような状態を放っておいたら、主人公はふたつの力によって真っ二つに引き裂かれてしまうであろう。だから彼はどちらかを滅ぼし、片方を取らなければならない。『金閣寺』の主人公は実際、金閣寺を焼くことで美を滅ぼし、美と一体化できない自分を選択する。彼は生きることを選ぶのである。

ただし主人公はできればそのような構造を自覚せずに、逃げていたいと思っている。それで彼は自分を引っ張るふたつの力のうち、楽な方に引かれる。すなわち人生の理不尽を否定したり、いつまでも美に陶酔し、金閣寺とともに死んでしまいたいと思ったりする。よって成長物語の主人公は多かれ少なかれ、誰もが愚者的なのである。正しい方を選ばずに間違った方を選ぶという点で、主人公は愚者なのだ。

このようにして主人公はミッドポイントまでは楽な道を進む。しかしそれは主人公の心の核にさだまっている倫理観によって強く否定される。これがミッドポイントである。これによって彼は挫折し、急降下する。救われる方法はただひとつ、困難な道に進むことを決意することだけである。ターニングポイントとは「道」を自覚的に選び取る瞬間である、と言い換えられるかもしれない。最初のターニングポイントは楽な道、次のターニングポイントは困難な道を選ぶ瞬間なのである。

このような構造上、ミッドポイントを越えるとセントラル・クエスチョンは変化することもある。たとえば『失われたものたちの本』は明らかに変化している。母の声をまねていた魔物を倒してからは、異世界の秘密を解き、現実世界に帰還することが主人公の目的となる。

セカンド・ターニングポイントは主人公が決着のために行動を起こす瞬間である。これによりすべては解決され、状況はよくなっていく。逆に、ミッドポイントからセカンド・ターニングポイントまでは主人公をとりまく状況はどんどん悪化していく。

『失われたものたちの本』においては、少し事情が特殊である。「ミッドポイントからセカンド・ターニングポイントまで」は主人公は堂々としており、臆することがない。ただし城や王は狼の軍勢に攻め立てられるため、事態には緊迫感がある。主人公はねじくれ男から誘惑に遭う。現実と向かい合うことを諦めて、物語の世界の中に引きこもることを誘われるのである。しかし主人公はそれを断る。彼はねじくれ男の問い、つまり弟の名前を言うことを断り、次のように言う。「名前は『弟』さ」。この瞬間がセカンド・ターニングポイントである。以降は一気に事態は解決に向かい、主人公は現実世界に帰還する。

主人公は成長し、物語の神髄を獲得した人間として、物語の語り手になる。これが葛藤の真の解決である。エンディングは死後の旅立ちとなっている。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

冒頭のセットアップでは、妻との生活や、電気羊を飼っている様子が描かれる。

インサイティング・インシデントは、主人公がブライアント警視からアンドロイドの始末を依頼される場面だ。ここでセントラル・クエスチョンが明らかになる。アンドロイドを殺して賞金で本物の動物を買うことだ。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』におけるファースト・ターニングポイントは、アンドロイドのポロコフを殺す瞬間だろう。あるいはその前の、ベイ・エリア清掃公社に立ち寄るところがすでにファースト・ターニングポイントなのかもしれない。ここで作中で初めて主人公はアンドロイドを殺す。あと戻りできない「アンドロイド狩り」の旅に出ることが定まった瞬間である。敵対者はアンドロイドである。

典型的には、ファースト・ターニングポイントを通過してからミッドポイントに到達するまで、主人公は色んな人の助けを借りながら楽勝のムードで困難を乗り越えていくが、ミッドポイント以降は状況が悪化していく。この王道構成は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』においてはある程度はあてはまっている。実際、主人公はポロコフとルーバ・ラフトをたやすく殺害する。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のミッドポイントはアンドロイドのルーバ・ラフトの殺害である。ここで主人公のリックはとつぜん「きみはアンドロイドに魂があると思うか?」とそばにいる人に尋ねている。彼は良心の呵責に耐えられないのである。良心が危機におちいること、がミッドポイント後の主人公の状況であると言える。本作の本質的な葛藤は、他者に対する憐れみの心を否定するか、それとも肯定して育てていくか、というふたつの心の対立だと言える。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』ではミッドポイントによってセントラル・クエスチョンが変化する。最初の目的であるアンドロイド狩りは変わらないのだが、同時に、良心を目覚めさせ、他者への憐れみを獲得することも目的となってくる。じつはこちらの方が主となる筋なのである。したがってセカンド・ターニングポイントは、マーサーを模した登攀になる。これによって主人公のリックは真に憐憫の精神を獲得する。そこからあとは、その憐憫の精神のテストのパートである。リックがヒキガエルを手にして家に帰ってから、妻より「これは摸造動物である」と指摘される。しかしそれでもリックはヒキガエルを飼っていくことを決意する。彼は言う。「電気動物にも生命はある。たとえ、わずかな生命でも」。これが葛藤が真に解決された瞬間である。

エンディングは、オープニングにおける妻との不和と非常に対照的になっている。妻がリックに対して友好的なのだ。

ロング・グッドバイ

『ロング・グッドバイ』は複雑なストーリー構成になっている。ストーリーが「テリー・レノックスとの交際」と「アイリーン・ウェイドからの依頼の解決」の二層に分かれているのだ。形式的にも実質的にも主となるパートは前者であり、前者と後者はシルヴィア・レノックスの殺害という事件によってつながれている。

「テリー・レノックスとの交際」のパートにおいては、マーロウと友人レノックスの出会いと生活が描かれるのがセットアップであるととらえられる。インサイティング・インシンデントはレノックスが銃を持ってたずねてくる場面だ。これはまさに外部からやってくる厄介事である。ファースト・ターニングポイントは牢獄での責めにマーロウが耐える場面だろう。ここでマーロウは主体性を発揮し、「レノックスとの友情を守るために耐えて口を閉ざす」ということを選択するのである。これによりセントラル・クエスチョンは明確になる。それはレノックスとの友情を守る、ということだ。敵対者はそれを破壊しようとするすべてである。特に裏切りの心、利己的に生きようとする己の心が本当の敵対者なのだ。

さて、ここで「テリー・レノックスとの交際」のパートは切断され、主人公は「アイリーン・ウェイドからの依頼の解決」のパートに導かれる。ここでのインサイティング・インシンデントはハワード・スペンサーがマーロウに依頼しにやってくるところだろう。ここでアイリーン・ウェイドは非常に肯定的に描かれる。女としての魅力が高い存在として描かれるのだ。

ファースト・ターニングポイントがどこかは判然としないが、おそらく三人の医者を巡ったあと、ふたたびヴェリンジャーをたずねていくところではないかと僕は思う。そのときマーロウはロジャー・ウェイドを善の位置に置いている。それが物語的な意味である。だとするとそれがマーロウの実質的な決断だととらえられる。

ミッドポイントはロジャー・ウェイドの死だろう。そこでセントラル・クエスチョンはロジャーの護衛や面倒を見ることから、ロジャ―の死の真相をつきとめることに移行する。すると、セカンド・ターニングポイントにおいてマーロウがアイリーンを犯人であると暴き、糾弾する。これにより「アイリーン・ウェイドからの依頼の解決」のパートは一気に終焉に向かう。

その後にマーロウが内心で「なぜロジャー・ウェイドは妻の犯行を黙っていたのだろう、不思議だ」といった内容のことを言うが、これは実はとぼけである。彼はロジャー・ウェイドが妻をかばうために犯行の秘密を守っていたのだということを悟ったのだ。このような高次の知がのちのマーロウの行動に影響を与える。

つまりリンダ・ローリングがひとりでマーロウをたずねてきたときに、彼女は結婚の誘いをかけるのだが、マーロウはそれをしたたかに断るのである。「戻るか戻らないかは自分で決める。テリー・レノックスとは違う」。ここは大事なポイントであり、「テリー・レノックスとの交際」のパートのセカンド・ターニングポイントの予告となっている。しかし三幕構成にはこのポイントに相当する概念は存在しない。なんにせよ、ロジャー・ウェイドの英雄的な忍耐が、マーロウの行動に影響を与えているということ、そしてそれは三段の変化――とぼけ・リンダの誘いを断る・セカンド・ターニングポイント――によって表現されていることは注目に値するだろう。

「アイリーン・ウェイドからの依頼の解決」のパートが終焉すると、読者は知らず知らずのうちに「テリー・レノックスとの交際」のパートへと導かれる。

ミッドポイントは来訪者の正体が明かされ、テリー・レノックスであるとされる瞬間である。このとき、セントラル・クエスチョンは明確に変化する。なぜならレノックスはミッドポイント以前は死んでいたのだから、すなわち愛する人(アイリーン・ウェイド)をかばって死んだ、という名誉的な位置にいたわけだが、それが一気に引きずりおろされるのである。ミッドポイント以降は、レノックスは「愛する女が死んだにもかかわらず保身をはかっておめおめと生き延びている男」に堕落するわけだ。

ここまで来たらあとのマーロウの行動は決まっている。彼ははっきりとレノックスに怒りをぶつけ、絶縁を宣言する。この瞬間がセカンド・ターニングポイントであり、小説は一気に解決に向かう。エンディングはマーロウがひとりであることである。これはオープニングのレノックスとの出会いと対照的である。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

『多崎つくる』も重層的なストーリー構成になっている。主となるパートは「沙羅との交際」で、従となるパートは「高校時代の友人との再会」である。

「沙羅との交際」のパートにおけるセットアップは、単に沙羅と主人公との交際を指している。インサイティング・インシデントは沙羅から「高校時代の四人に会え」と要求されるところである。ファースト・ターニングポイントは実際に最初のひとりに会いに行くところだと思われるが、判然としない。いずれにせよあまり重要でない。

ミッドポイントは沙羅が見知らぬ男と二人で楽しそうに歩いているところを主人公が目撃してしまう場面で、ここは重要である。セントラル・クエスチョンが微妙に変化する。それまでは単に自分の心の問題を解決することで沙羅との関係性を向上させようという話だったのが、他の男との取り合いという、のっぴきならない事態に変化してしまうわけだ。セカンド・ターニングポイントは沙羅に電話をかけて「君の隣に他に男がいる」と指摘するところだろう。これは主人公が自分を選択することを沙羅に迫ることと同じであり、思い切った行動だと受け取れる。

「高校時代の友人との再会」のパートにおけるセットアップは友人四人との日常である。インサイティング・インシデントは、主人公が大学二年生の夏休みに友人四人から絶縁を宣言されるところだろう。それで彼は死のふちをさまよう。この苦難の先取りは本作のポイントのひとつである。ファースト・ターニングポイントは死のふちをさまよっていたところから何とか再生し、生きる方へと向かうところだ。ミッドポイントは大人になってから会いに行くことを決意するところだが、苦難の先取りをした結果、基本的に楽勝のムードで物事が進んでいく。セカンド・ターニングポイントは、「そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた」というところだろう。その直後にハグが行われるので、内面的にも外面的にもターニングポイントにふさわしいと思われる。

「沙羅との交際」のパートは形式的には主だが、実質的に重要な方は「高校時代の友人との再会」のパートだろう。前者はあくまでも後者で成長した主人公の精神性の高さをテストするためのパートに過ぎない。

所感

  • かなりはっきりと三幕構成による分析ができたので、自分の成長が実感できた。

  • 小説の場合は映画と異なり、序盤の時間の順序が乱れていることが多い。『失われたものたちの本』は第一文目がインサイティング・インシデントである。『多崎つくる』にも似たようなことが言える。

  • 二層で構成される作品の分析も一応できたが、なぜ二層に分かれなくてはならないのか、といった本質にまで踏み込んだ分析はできなかったので、今後はそこも研究していきたい。

以上