見出し画像

『ドン・キホーテ』を読む

『ドン・キホーテ』の再読を完了させたので、それについて書く。

この小説を読む上で注意すべきなのは、前篇と後篇の差異である。強く言うが、前篇と後篇はまったく違う話だ。ほとんど別作品だと思った方が良いだろう。まずは前篇だけに焦点をあわせる。

ドン・キホーテ前篇

前篇の要諦は、慈悲ということだ。その理路を説明する。

この小説の根本的な構造に差別ということがある。羊飼いの少年は雇い主に縛り付けられて打擲され、給料を出されない。学士と床屋によってドン・キホーテの蔵書に関する裁判が開かれ、悪書は焼かれる。拘束されたガレー船の漕刑囚が登場し、醜女には愛すべき価値がないと断言され、若者カルデニオは恋にやぶれて気が狂って山中を這いまわる。サンチョは黒人を奴隷として売り飛ばすことを平然とした顔で計画し、『愚かな物好きの話』において道を踏み外した者たちは破滅し、トルコ人に誘拐されて人質として扱われる元兵士たちが登場し、トルコ人はモーロ人に暴虐のかぎりをつくす。これらの誰もがみじめな位置にいる存在である。

そしてこれらすべての被差別者のさらに下につく者としてドン・キホーテがいるのである。彼は殴られ打ち倒され、嘲笑され、正気をうしなった人物として扱われる。つまり彼は自分がひどい目に遭うことで他の人の位置を下から支え、守っているのである。それはキリスト教的な自己犠牲ともいえよう。ドン・キホーテは愚者であると同時に救世主なのだ。

「拙者の願いは」と、ドン・キホーテがひきとった、「ひとえにあなたのお役に立ちたいということでござる。実際、この願いは切なるものでして、あなたを見つけ出すまでは、そしてあなたが奇妙な生活をおくることによって如実に示しておいでの苦悩には、それを癒すなんらかの手段があるものかどうかを、あなたから直にうかがうまでは、決してこの山から出ぬという決心をしたほどでござるよ。ですから、あなたを探し出すのがいかほど大変なことであろうと、万難を排してでも、必ず探し出す覚悟でおりました。そして万が一、あなたの不幸がいかなる種類の慰めに対しても門戸を閉ざしている底のものであれば、その場合には、できるだけあなたと心をひとつにし、ともにその不幸を嘆き悲しもうと思っておりました。と申すのは、いかに悲惨な運命のなかにあっても、そばでともに嘆き悲しんでくれる者がおれば、それはそれでいくらかの慰めにはなるからでござる。」

ドン・キホーテは年寄りである。これは大切なことだ。彼は年長者としてそれより年下の者――具体的にはカルデニオたち――を守り、救いの力を与える存在だと言える。彼はしょっちゅう「黄金時代」を懐かしむ。それは自らの少年時代をふりかえる老人の態度だろう。

「その昔の、あの幸せな時代、あれらの幸福な世紀に、古人が黄金時代という名をつけたのは、なにもあの時代に、われわれのこの鉄の時代において高い評価を得ている黄金が労せずして手に入ったからというわけではない。そうではなくて、あの時代に生きていた人びとが《君のもの》、《わたしのもの》という二つの言葉を知らなかったからなのじゃ。あの聖なる時代にあっては、あらゆるものが共有であり、日々の糧を得るにしても、枝もたわわな大樹に手を伸ばし、それがふんだんに提供してくれる甘く熟した果実をもぎ取るだけでよかった。清らかな泉と川のせせらぎが、澄んだおいしい飲料水を人びとに、ありあまるほどたっぷりと与えていた。岩の割れ目や木々の虚穴では、かいがいしくて賢い蜜蜂たちが自分たちの共同体を造営し、その心楽しい労働の濃密な成果を、なんら代償を要求することなく、あらゆる人びとの手に差し出していた。」

我々男子は少年のころは無敵である。たとえ何があろうと自分の前には、将来には壮大な冒険が横たわっていると信じて疑っていない。波乱万丈な物語があり、素晴らしい恋が待ち受けていると信じている。そして歳をとった暁にはそれらがすべて嘘であったと分かる。その失われた物語を大切に思う心。それがドン・キホーテの言う「黄金時代」の正体だろう。彼は老人と少年のあいだを行き来する存在なのだ。我らが主人公は正気かつ狂気であり、現実かつ夢物語であり、老人かつ少年なのだ。そういう両義的な存在がドン・キホーテだと言える。

ドン・キホーテは若い頃の夢物語にいまだに全身浸かっているように見えて、そのじつそれが虚しく終わるものだということを骨の髄まで悟っている。だから彼は若い頃の自分をはじめとして、夢見る者すべてを憐れんでいる。それがドン・キホーテの持つ偉大な慈悲の力の出発点なのである。

この文脈に沿って考えると、カルデニオは自らの「物語」を破滅させつつある存在である。恋にやぶれたと信じ、正気を失っている。羊飼いは次のようにカルデニオを評する。

「というのも、彼が狂気の発作にとらわれている折には、よしんば羊飼いたちが進んで食物を差し出したところで、その好意を受けようとはせず、骨をふるって乱暴に取りあげるからです。ところが正気でいる時には、神の慈悲に訴えながら、丁重に礼儀をつくしてそれを乞い、受けた親切に対しては、目に涙さえ浮かべて何度も礼を言うほどなんですよ。」

さらに作者のセルバンテスはカルデニオを次のようにも表現する。「嘆きの襤褸騎士」と。言い換えればここではカルデニオはドン・キホーテ的な存在として描かれているのである。ただしドン・キホーテが老人であるのに対してカルデニオは若い。カルデニオは物語の帰結として最終的に婚約者をふたたび奪い返し、成婚する。この構図は、ドン・キホーテはかつての自分と出会い、それを救うのだとも受け取れる。ドン・キホーテは自らの身を犠牲にささげて、他者カルデニオの「物語」を復活させる存在なのだ。セルバンテスは『前篇』を発表した段階ですでに五十代である。夢にやぶれ、さまざまな辛苦を舐めた存在が、狂った騎士ドン・キホーテに身を扮して、ひとびとの夢を守ろうしている。それこそが『前篇』という物語の実相だろう。

次の引用部の「記憶力の喪失」はセルバンテス自身が経験したことに違いないのである。

「こんなわけですから、もう皆さんもお気づきのように、わたくしの半生はすべて奇跡と不可思議から成っているのでございます。もしわたくしの話が、ある部分で誇張が過ぎたり、あるいは正確性を欠いたりしていたとするなら、それはこの話の冒頭で学士様がおっしゃったことのせいにしてください。つまり、尋常ではない苦難に絶えずさいなまれていると、記憶力まで喪失してしまうことがあるということです。」

さて、犠牲という概念に焦点をあわせると『前篇』は読み解ける。

羊飼いの少年アンドレスはドン・キホーテに助けられたにもかかわらずみじめな目に遭うが、その後にさらに商人の騾馬引きによってドン・キホーテが打ち据えられることで、間接的に救済される。

狂人カルデニオと喧嘩別れした後にドン・キホーテが山中で姫ドゥルシネーアを思って嘆き、苦行に励むが、これは恋人に裏切られたと思い込み苦しんでいるカルデニオの懊悩を、ドン・キホーテが代わりに引き受けているのだと受け取れる。

途中で唐突に挿入される短編の『愚かな物好きの話』は、恋人たちが破滅する話である。この話は、話そのものが犠牲となって働き、その後のカルデニオたちの結婚という物語の展開に利しているのだと考えられる。

「捕虜」の話において大尉が妻を娶って帰国し、弟と再会するという成功譚は、その前にある虜囚生活や、上陸寸前に金貨や宝石を失うことが犠牲として機能しているのだと認められる。

このように、『前篇』は一見つながりのない短い話が気まぐれに並んでいるように見えて、実質はそうではない。少なくともカルデニオが登場する場面以降は、一本の糸によって各挿話はつながれている。物語はあきらかに若い男女の幸福と結婚を目指しているのだ。そしてその背後にはかならずドン・キホーテという愚者の献身がある。読者に与える心理的影響という側面から見れば、むしろおのおのの短編は適切な並びで作られているということがよく分かるだろう。

つまりドン・キホーテは嘘いつわりなく、たしかに英雄なのである。彼が次のように言うとき、まさにそれは真実を告げている。

「拙者は遍歴の騎士でござるが、その名を《名誉》が決して思い出してくれない、つまり永遠の記憶に決して刻まれることのないようなたぐいの騎士ではありませぬ。そうではなくて、ありとあらゆる嫉妬をはねのけ、さらにはペルシャの妖術師、インドのバラモン、エチオピアの裸体苦行者たちのすべてを向こうにまわして不滅の殿堂にその名をとどめ、かくして来たるべき代々にあっては模範とも手本ともなり、もし新たな遍歴の騎士たちが武勇の誉れの頂点をきわめようと欲するならば、どうしてもその足跡を踏まねばならぬような、そうした騎士でござる。」

前篇におけるドン・キホーテの正体。それは物語の守り手であった。彼は「遍歴の騎士など実在しない。騎士道物語はすべて嘘っぱちだ」と主張する者に次のように反駁する。

「ところが拙者の見るところ」と、ドン・キホーテが反論した、「理性を失い、魔法にかかっているのは、むしろあなたのほうですな。だってそうでござろう、世間に広く受け入れられ、まごうことなき真実と認められておるものに対して、あのような冒瀆の言を吐かれたのだから。あなたのようにそれを否定する者は誰であれ、あなたがあの種の書物を読んで、いらだちを覚えた折に書物に対して行なうと先ほど言われた、ああいう刑罰を受けるに値しますぞ。なんとなれば、アマディスをはじめ、物語の中で活躍するあまたの遍歴の騎士たちが、かつてこの世に存在しなかったなどと人に思いこませようとするのは、太陽が輝かぬ、氷が冷やさぬ、また大地が作物をもたらさぬと説くも同然だからでござる。そもそも、王女フロリーペスとグイ・ド・ブルゴーニュの恋物語が、あるいはシャルルマーニュ大帝の御代に起こった、神にかけて、今が昼であるのと同じほど明白な事実である、騎士フィエラブラスのマンティーブレ橋における冒険が真実でないと、人に説得できるような才覚の持主がこの世にいるものでござろうか? もしこれらが偽りであるとするなら、ヘクトルも、アキレウスも、トロイ戦争も、フランスの十二英傑も、はたまた、今日にいたるまでその姿を烏に変えて生きており、国民が王位への復帰を一日千秋の思いで待ち望んでおるイギリスのアーサー王もすべて存在しなかったことになってしまいますぞ。」

ドン・キホーテ後篇

『ドン・キホーテ』はあくまでも『前篇』が主たる部分である。『後篇』は単なるおまけに過ぎず、読まなくても問題ない。むしろ読まない方がいいかもしれない。

『後篇』の理解の鍵は『前篇』にある。『前篇』の理解度が完全であれば、『後篇』を理解するのはかなり容易である。逆に『前篇』が分かっていない場合は『後篇』の理解はぜったいに不可能となる。ちなみに『前篇』より『後篇』の方が面白いと気軽に言ってのける人のほとんどは分かっていない側の人物だろう。

『前篇』は滅私奉公の書である。己を犠牲にささげて世に奉仕するとはいかなることかを実践して示したのが『前篇』であると言える。その裏にはかならず作者の隠された痛みがあり、苦しみがあり、切実な涙がある。セルバンテスはおそらく、そこまでを含めた全体を理解してほしかった。自分のすべての意図を見抜いてほしかったのではないかと僕は思う。しかし、これも推測だが、たぶん当時のスペインの文壇からはそのような評価を得られなかったのだろう。それどころか、『後篇』を読んだ感じではむしろ貶されたようだ。

セルバンテスはそこで激怒した。だから彼は作家としてやってはいけないことを実行に移すことにする。『後篇』を書き、そこで読者を苛烈に攻撃するのだ。ただ、彼は底意地が悪かったので、一見そうとは分からないやり方を取ることにした。すなわち読者を存分に楽しませて、最後に楽しみを強引に取り上げるという物語構成を取るのである。

『後篇』のキーワードは「愚弄」だ。それも『前篇』とは異なり、執拗なまでに周囲の登場人物がドン・キホーテを愚弄するところに笑いの力点が置かれている。公爵夫妻は読者を代表する人物である。彼らは徹底的にドン・キホーテをこき下ろす。それは確かに笑えるのだが、読んでいる人は最終的に胸の内のなにか大事なところがすり減らされているような感覚を覚える。

さらにシデ・ハメーテは、こう付け加えている――人を愚弄する者たちも愚弄される者たちと同じく狂気にとらわれていると思う、現に、公爵夫妻は一対のばか者をからかい、もてあそぶのにあれほどまでの熱意を示しているのであってみれみれば、彼ら自身、ばか者と思われるところからほんの指幅二つと離れてはいないのだ。

つまり『後篇』で愚弄されているのはじつは読者自身なのである。セルバンテスはこう思った。『前篇』のポイントは慈悲である。そういうことが理解できない、笑いの部分しか読み取れない愚かな読者を自分は攻撃せねばなるまい。そしてそれを実行に移した。それが上記の部分だろう。

『後篇』のポイントは最初から最後に渡って、ドン・キホーテの周囲の登場人物が騎士道物語という妄想の世界にみずから踏み込んでいくところにある。学士サンソン・カラスコは鏡の騎士あるいは銀月の騎士となってドン・キホーテに戦いを挑み、サンチョは田舎の百姓娘をドゥルシネーア姫だと言い張り、公爵夫妻やドン・アントニオはドン・キホーテを本物の遍歴の騎士であるかのように彼を歓待する。

しかしその魔法も解ける。『前篇』が魔法、すなわち物語の力の復活や持続ということがテーマならば、『後篇』は魔法が解けて人々が現実に返っていくこと、物語が破壊されて消え去ることにテーマがある。

「およしなさいよ、ドン・キホーテ様」と、使者がひきとった、「魔法だとか変身だとかおっしゃるのは。そんなものは、これっぽっちもなかったんですから。だってわたしは正真正銘の従僕トシーロスとして矢来の仕合い場に入り、そのまま従僕のトシーロスとして出てきたんですよ。実を言うと、わたしはあのとき、あの娘御がひどく気に入ったものですから、戦いを放棄して、結婚しようという気になったんです。ところが、事はわたしの思いどおりには運びませんでした。というのも、あなた様があの城からお発ちになるとすぐに、公爵様は、わたしが決闘に赴く前に言いつけられた命令に背いたという理由で、わたしに棒打ちを百回くらわすようにお命じになったからです。そして、とどのつまりは、あの娘御は修道女になり、ドニャ・ロドリーゲスは郷里のカスティーリャへ帰ってしまいました。わたしは今こんな格好で、わたしの御主人の密書をバルセローナの副王のもとへ届けにいくところなんです。ところで、どうです、よろしかったら一杯やりませんか。この瓢に極上のやつをいっぱい入れてきましたから。」

『前篇』ではドン・キホーテはその献身によって数多くのカップルを成婚させたが、その力が今や発揮されないということがここでは示されている。ドン・キホーテに今や奇跡の力は存在しない。侍女のアルティシドーラも同様に自分の演技をみずから「嘘だ」と言ってドン・キホーテを罵るが、これもやはり魔法の解除、物語の終わりということと関連がある。サンチョの鞭打ちによって、期待されていたようにドゥルシネーア姫が元の姿に戻ることがないというのも、同じことだと言える。

なおアルティシドーラによって悪魔たちがテニスをする場面が語られるが、これは続編を勝手に書いた作者への怒りだろう。こんな風に『後篇』というのは要するにセルバンテス個人の私怨の書なのである。滅私奉公の『前篇』とはまったく正反対なのだ。

小説の最後にドン・キホーテ自身から物語の終焉が語られて、『後篇』は幕を閉じている。ここまできて鈍感な部類の読者もやっとこれが悲劇であることを覚るであろう。

「やあ、あなたがた、どうか喜んでくだされ、わしはもうドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャではありませんからな。日ごろの行ないのおかげで《善人》というあだ名をちょうだいしていた、あのアロンソ・キハーノに戻りましたのじゃ。今ではわしはアマディス・デ・ガウラ、ならびに、おびただしいその一族の敵であり、ああした遍歴の騎士道の不埒な書物をおぞましく思う者であります。あれらのものを喜んで読んでいた自分の愚かさと、みずからが陥っていた危険にやっと気づいたのです。つまり、神の広大無辺のお慈悲とわし自身の苦い体験により、ああした書物を嫌悪するようになりましたのじゃ。」