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ノー・フューチャーという言葉
最近僕はよくマリリン・マンソンを聴いている。彼は歌詞にノー・フューチャーという言葉を使う。これは、現代人にはたやすく理解できる言葉である。「俺に未来はない」と言ったら、言った人が絶望しているということを意味すると普通は理解する。しかし古代の人、とくに非常に原始的な文明の段階にいる人々にはむずかしい言葉ではないかと僕はふと思った。
たとえばまだ獲物がどの季節にも山のようにいるような環境で生きている狩猟民族は、あまり明日というものを気にしないだろう。明日もきっと楽しい狩りが待っていて、捕らえた獲物を料理してみんなで食べて終わりだろうと考えるはずだ。というか、正確には明日というものを考えもしないだろう。昨日も今日も同じ。明日も今日と同じで安泰という環境においては、人は未来というものを考えないはずである。これは僕の推測だが、きっと正しいと思う。
未来に救いを求めるのは、過去が苦難続きだった人だけである。そういう環境でキリスト教の最後の審判のような考え方が出てくる。どれほど理不尽なことが起きようと、正しい人が殺されようと、最後には神様がすべての人を復活させた上で、この人は善人、この人は悪人という形で裁いてくれる。いっさいは公平に扱われるという考え方である。A・コーヘンの書いた「タルムード入門」という本には、たしか「古代ユダヤ人は他の民族が過去の神話に心の拠り所と栄光を求めたのと真逆で、未来に救いと栄光を求めた」というようなことが書かれてある。それは当時はまったく新しい発想だったのだろう。ちなみに読者には申し訳ないが、いま手元にその本がないのでこの引用は正確ではない。
未来がないという言葉は、このような心情を理解した上で使う言葉なのだと思う。とすると、実はけっこう文脈が複雑な言葉だ。僕は今日そのことに気がついた。マリリン・マンソンは頭が良さそうだ。
ちなみに僕はno pastである。過去があまりに辛くて、過去というものを認識できない。なにも思い出せないのだ。そういう人間にはそもそも時間という概念がない。つねに「今」しかない。いつも座標軸の原点である「今」に固定されていて動けない。未来もなければ過去もなく、したがってもはや人間ではないのである。僕は無に近い存在だ。