虚構 その11
「おい、イマムラァ〜ッ」
「…おはようございます」
「お前
今日は階段下で待機してる派遣連れて4人でニコンパス移転だな?」
野村さんは、いつも
この調子で粗雑でぶっきらぼうな口調だ。
今日は担当地区の配達ではなく臨時で事務所移転のヘルプに向かうことになっている。
ようやく朝日が昇りはじめた空の色は、まだ夜の余韻を残したまま上澄みだけが紫色のままだ。
着替えを済ませ事務所階段の下で待っている派遣のふたりに声をかける。
「おはようございます。
派遣さん、今日はニコンパスの事務所移転の業務です。おふたりとも電車移動でなく後ほどあのナンバー1983の車に乗ってもらいます。
お名前は鹿田さんと岡里さんですね?」
派遣のふたりは、互い静かに相槌をうつ。
「もう少ししたら朝礼はじめますのでそれまで待機していて下さい。
もしタバコを吸う方がいらっしゃれば喫煙所は倉庫の左端にありますので、朝礼までに吸っておいてください」
"派遣のふたり"は、もういちど互い静かに相槌をうった。
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出荷されてからもう20年近くは経ってるであろう年季の入ったカセットデッキの再生ボタンに、野村さんが人差し指をのばす。
「南濃体操から。はじめっ!!」
このカセットデッキは、周囲や世界が日々刻々とさまざまに変容しても20年間同じテープを東経135度子午線を基準に毎朝7時30分ぴったりに5分間ひたすら再生している。
めいめいがカセットの間延びしたアナウンサーの声に従って屈伸運動を続けた。
「朝礼を始めます。おはようございます」
まばらな挨拶は資材倉庫の前に漂って、雲間から差し込む太陽光が静かにからだ全身へと染み込む。
「今日は野村さんと今村がニコンパス、浜口さんが王子生命、それぞれ事務所移転作業でお願いします。前日までと同じく若王寺フロントから応援が来ますので、現場上長と連携して作業進める様にお願いします。」
「じゃあアレやるか、イマムラ早く読め」
野村さんが急かす。
倉庫のシャッター脇に貼っているハラスメント防止の"5つの合言葉"読み上げる。
5年ほど前からラミネートの施され倉庫の柱に貼っているその合言葉は、陽光に照らされて光をところどころ反射させている。
◯あなたのその態度は、誰かを萎縮させ
意見交換や相談することができない環境を作り出してはいませんか?
◯あなたのその言動は誰かの生命を脅かしたり、または傷つけたりしてはいませんか?
◯あなたの言動ひとつひとつは、家族や職場のひとりひとりに胸を張って話す事ができますか?
めいめいが、静かに、疎らに復唱を続ける。
突然、野村さんが澄んだ朝の空気を切り裂くような大きな声で
「おめぇ~は、な、どうせ夜遊びが過ぎて腰痛持ちなってんだから、もう一回体操しろよ〜!」
野村さんが、私にちゃちゃを入れてきた。
「何回やるんですか…このくだり笑
若い頃の野村さんみたいに遊んでないですって」
と、気怠い微笑を含んで言葉を返した。
野村さん流の労いだと捉えている。
みんな、暇と退屈を、こうして凌いでいる。
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「い 19-83」と緑に白抜きされたナンバープレートのバンに乗り込む。
奇しくも私の生まれた西暦と苗字の頭文字をひらがなで書いたナンバーだ。
…ナンバープレートって、そういえばすべてに意味合いがあるのか…
よくわからない想念が一瞬過ぎりつつも、派遣ふたりが待機している前まで横付けする。
片方の若い大学生くらいの子は乗るように促すと早速後部座席に乗り込んだが、もうひとり私と同年代にみえる男は、執拗に他の配達員が準備している梱包資材の搬入を手伝おうと張り切っている。
…不器用、だからこんな風になってしまうんだ…
何となく
私自身の長く働いてようやく陰を潜めた不器用さを、ついこの中年の男に投影してしまう。
「あの、お手伝いは大丈夫なので、車、
乗り込んでいただけますか?」
「あ、あっ、はい!」
いかにも"カラ元気"な声で、ここに漂う乾いた空気を振動させている。
野村さんが資材の積み込みを終え助手席に乗り込んできた。
ニコンパスの事務所に向けて静かにバンを走らせはじめた。
「左よし。」
野村さんは、そう言うと間髪入れず
ふっ、と笑いながら
「イマムラァ、おい、お前、この時間は星若街道混むんだからヨォ〜、早く逆走しろよ~」
と言ってくる。
私も、静かに
「ふっ。」
と、ポイ捨てするような笑いを吐き出し適当な相槌を打つ。
信号で右折待ちをしていると、親子づれでいかにも愛情を一心に受けているように見える子どもが、なにやらその親に話しかけながら横断歩道を渡り、あともうすこしで桜が彩ってゆく遊歩道へと歩みを進めている。
その後を、生真面目で温厚そうな壮年に差し掛かっている男と、女ふたりも続けて横断歩道をわたる。
「左よし」
野村さんの巻き込み注意の掛け声とともに、さまざまな情景が、ふと自分の頭の中で展開された。
…女ふたりのうち、ひとり、顔に見覚えがあるな…
たった10秒ほどだが一瞬で星川図書館のカウンターでのやり取りと、つい先日読み終えたオレンジ色の表紙の戯曲
「私たちがたがいをなにも知らなかった時」
が、頭の中でよくわからないまま展開されてゆく。
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舞台はまばゆい春の気配を感じさせる
ありふれた横断歩道。
はじまりにまずふたり、すばやくアスファルトに引かれた白線を横切っている。
ついで同様の方角を向いて男ひとりと女ふたりがゆっくりとした速度で歩いている。
間。
舞台奥、右側から元々の塗装に
「現代的なデザイン」
を上塗りした貨物の車のハンドルを握る男。
しばしこの様子を眺める。
隣には、中年の男が退屈しのぎの話はないかと、その車の助手席で悶々としている。
間。
突然、足早に男が女か判別のつかない長髪の人間が風にその髪を靡かせて駆け抜ける。
今度は交差点の角に不機嫌そうでいてよく感情の読み取れない顔のまま警棒を後ろ手に持って何度も意味なく背中に打ちつけている警官が登場。
警官は、さっそく突如流行作家となった丸縁眼鏡をかけた小説家をみつけ嬉々としてうしろをつけ始める。
反対方向から坂口安吾がカレーの染みをよれ切ったからだに下着につけたまま満足そうに悠然と横切る。
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「カレー食えば眠気も醒めるぜ」
…カレー?…
運転の集中と、頭の片隅でよくわからないまま展開されていた戯曲の合間に、野村さんは後部座席でうとうとしている若い派遣の子に話しかけていた。
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つづくぅ?
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