誰もが陥る「私」という人生ゲーム⑰
概念から離れる
概念から離れると、「悩み」はなくなる。
なくなるのではなくて、悩みとして起きないというだけだけど。
何もない場所にただ何かが浮かび、起こり、それを体験していくだけの日常。
何もせずそこにいるだけ。
何かしていてもそこにいつもあるもの。
でもそこに居続けることはできない。
何にも支配されていなくて、制限されてもなく。
ただし、「私」が戻ってきた瞬間にそれは消える。
放棄する
見る景色は、見ている場所で異なる。
それは当たり前のこと。
枠のない空間は、概念から解放されている空間で、良い意味で「どうあってもよい」から、見る場所や見る人によってはつまらなく思うだろう。
なんでもどうでも良いというのはつまらないから、人は何かに名前をつけていて、これはこういうことと定義づけされていた方が、抑揚や感情の揺さぶりがあるし、それをなんだかんだ好んでいるのかもしれない。
でも、自然界や広くは宇宙は、何も自ら名称設定をしなくても勝手に良いように変化変容していく。
それでちゃんとバランスよく流れていく。
広大な自然や無限の宇宙がそれなのに、人間だけ自由意思で自分の思い通りになんてなるわけがない。
自分の理想のような設定は、無意味なのだ。
すべて放棄しても、勝手に流れていく。
今をどうあがいたとしても完璧に流れている。
タイトルのない映画を見るのはちょっと退屈
例えば、この世界に言葉や概念がなくて、ただ自分や他の人が存在していて何かが起こることを体験しているだけの世界にただ在るとして(本来は存在する誰かはいないけど)、
その時、人は何かを「深刻に考える」ことはきっとしない。
それだけを体験し、それによって幸福感のようなものが漂ったり、場合によっては不幸な感じがしたりは経験するだろうけど、それが「何」かを判断もしないし、その漂うものを次に持ち越したりもしない。
感じることを、これは何だろう?と考えたりしない。
「人」という概念がなければ、人は存在しない。
私たちはただの「そうやって現れている存在」にしかならない。
セリフもないし、感情の継続でストーリーが成立することもなくなって、なんともつまらない映画になる。
無音無意味無感情の映画。
でもなんであっても良いという、無限が存在する。だけの映画。
そこに概念をつけて、名前と意味を与えているのは自分と思っている自分。
すべて自己責任映画にしかならない。
誰も登場人物のいない、無音無色無意味無感情の映画は見る人によって、その映画の質が変わるだけ。
それがこの人生ゲーム。
「これはこういう内容の映画だ」とタイトルを決めた瞬間に、その世界はその通りに広がる。
絶対的パーフェクトな空間に、意味づけしてしまうとそれが瞬時に壊れる。