誰もが陥る「私」という人生ゲーム⑬
起こることをコントロールしようとしても、できない
苦しいことや悲しいことがあった時、その感情をなくすために何かをしてそれを和らげようとします。
「私」に何か問題らしきことが起こった時は大変です。どうにかしようと無意識的にも意識的にも必死になります。
一気に人生ゲームの主人公にでもなったかのようです。
かく言う、私自身もその瞬間はもちろんそうなります。
起こることは仕方ない(どうしようもない)。
仕方ないなんて言葉で片付けられないほどのことも起こるし、心は当たり前に痛むのですが、「起きた出来事」は起こったしかない事実があります。
苦しみ、怒り、喜び、楽しみ。なんでも起こる。
それ以外のこと、なにも起こせない。
湧いてくるだけ
出来事、物事、感情もすべて「湧いて」きています。
世界や「私」に起こる悲しい出来事、その時悲しい感情が「自然に湧いて」きます。確かに悲しい です。
だってほんとに「悲しい」のですから。悲しいしかそこにはあり得ません。
湧いてくることは誰にもどうすることもできなくて。
悲しかったり苦しいことに、誰かが関与していると感じていれば、その誰かに対する憎悪が「湧く」のも当然です。
それをコントロールすることなんてできないし、しなくていいと思います。
もちろん現実的には犯罪以外であればです。
「どうにかしようと何かする」ことが苦しみの始まり
普通は何か問題のように感じることが起きれば、改善策を考えたり、予防策を考えて実施することは「良い」と判断する方が圧倒的に多いと思います。
でも、私たちが生まれて成長し、朽ち果てるまでの一生を「どうにかしよう」としても、それはできないことです。
今日は赤ちゃん、明日は大人でいよう!なんてできる人はいません。
お天気もどうにかしようとしてもできないし、誰かの気持ちをどうにかしようとしてもできないことです。
どうにかできるのであれば、相手をどうにでもできるし、イヤな感情もなくせるし、イヤな出来事も起こせなくできます。
人間だけが魔法使いのように何かをどうにかできるなんて、世の中の摂理的にできないと思いませんか?
できることは主人公にならないことだけ
映画を見ていて、そのストーリーが恐怖映画であった場合、その瞬間は恐怖を感じますが、その感情をずっと持ち続けることはしません。
恐怖を感じないように「どうにかしよう」など思わないはずです。
ただ恐怖を感じていて、感じていることはどうしようもなくて、それをそのままにしているだけだと思います。
「私」に起こることも自動的に起こるし、絶えることなく次々に起こります。
私たちができるのは、その感情を体感・体験するだけで、イヤな感情をなくすためにどうにか起こることを変えたいともがくのは無意味 なのです。
といっても、苦しみを持ち続けないようにしましょう!
と、スピリチュアル的発想で苦しみから離れる努力をすることではなく、
苦しいことは苦しくて当然。どうにかしようとしなければ苦しみを増幅させることがないよ。
だって、どうにかできる私はそもそもいないし、私という愛の空間は、起こることも感じることもすべて与えすべて受け取ることを許されている、無償の愛の塊でしかない。
でもそんな綺麗事ですらもない。
ノンデュアリティは誰でもどこかのタイミングで、最終的に辿り着くところだと思います。普通過ぎて、当たり前すぎて見えないけれど。
「私」だろうと無だろうと、どうでもよくて、いつも「そのまま」が起こる。
それこそ「私がいない世界」。
本当は誰もが求めてやまないもの。を既にみんな体感していることを忘れている。