誰もが陥る「私」という人生ゲーム⑯
名前・言葉・思考は「概念」でしかない
モノ、人物、私たちが発する言葉、「〇〇論」・・・。
これらだけではなく、世の中のありとあらゆるものには名前があり、考えや暗黙の一般論等、数えきれないほど、固有名詞や固定観念に溢れている。
でも、
「私」は「私」ですか?
「私」は何ですか?
「鈴木」さんという名前の方がいたとして、その方は「鈴木」なんですか?
鈴木ってなんですか?
モノで言うと、
「パソコン」というものは、何の疑いもなく「パソコン」ですが、実際にはたくさんの部品が集まって形つくられているもので、何が「パソコン」なのかはわからない。
人も同じで、「私」と思い込んでいる「私」は臓器の集まりでしかない。
言葉、例えば「愛」は日本語(ひらがな)なら「あい」と書いて、
「あ」と「い」の組み合わせで、その一つ一つは「音」でしかない。
目で見てる「あ」と「い」は、「それ」でしかない。
そして英語圏にいけば、「愛」は「LOVE」だけど、「L」「O」「V」「E」、単語の羅列で音の羅列であり、どこかにそれが存在するわけではなく、形は結局のところない。
他のものもすべて同じ構造になる。
分解していくと、なにもそれを示すことはできなくなる。
言語も国によって使用する言語が変わり、それを理解する人でなくては何が
なんだかわからない「音」でしかなくなる。
なので、概念はそれを理解する人でないと通じない のは当然だ。
赤ちゃんに概念は通用しない。
「概念」に振り回されると事実が見えなくなる
赤ちゃんが概念を理解しないのは当然だけれど、それが悪いことでは全くないことは誰もがわかる。
悪どころか、赤ちゃんに対しては自然と笑みが出たり癒されもする。
それは存在そのものの愛から、純粋に愛を感じるから。
何も求められない、何もそこに求めないものだから。
「ない」から。
それなのになぜか、大人は概念にがんじがらめになる。
概念は、「~である」という定義づけのことで、
善悪はそこにはないけれど、誰かが何かが決めたことでしかない。
そこには「正」があるように思えるけれど、実際は「正誤」がない。
そもそも概念を持たない赤ちゃんに対して、無条件の愛を無意識に感じることこそに、「私」の真のリラックスがあるからだ。
概念は本来ないことを説明すると、瞬時に「概念」になるパラドックス
だから真実は見えにくいし、伝わりにくい。
伝えた途端に、書いた途端に「概念」に早変わりしてしまうから。
結局のところ、「感覚」にしか事実はない。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚
「辛味」を正しくは説明はできない。辛く感じているだけが事実だから。
「赤」を正しくは説明できない。赤に見えていることだけが事実。
「香水」香りも正しくは説明できない。ただその匂いがすることだけが事実。
「音楽」も正しくは説明できない。ただ音がすることだけが事実だから。
「ざらざら」とした触感も正しくは説明できない。さわった感覚でしかないから。
そして「赤」と認識しているそのものは、「私は赤です」と言わない。
それなのに「赤」だとしているのは「概念」。
ノンデュアリティも、「私」という概念に縛られていると決して理解はできない。
伝えても正確には伝わらないものだけれど、とにかく大元には何もない。
「私」なんてどこにもいない。
概念上の作られているもの。
それは脳が創り上げているものにすぎない。
脳の産物を見ている どこかにいる私らしきもの。
この現実はスクリーンでしかない。
何もない白い空間。
今まさにしている、noteの打ち込み画面と同じ。
「私はnoteです」なんて言っていないものを「note」としているのは私たちの概念であり、本当はnoteなんてどこにもない。
脳が概念をインプットして、空間に創り出している。
実に面白いゲーム。
何もないところに、概念で創り上げる。