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勝手に意味づけをしている、意味のない人生を送りたくない自我

なんのために生きているのか
あの人は幸せそうなのに、なぜ私は不幸なのか
なんでこんな目に合うのか・・・
手に入れたいものの数々・・

「私」に起こる、あれこれの「私に都合の悪い」出来事。
手に入れて仕方のない「私に都合の良い」出来事やもの。
「私」「私」「私」「私」「私」・・・・

人間は「私」が良くなることを中心に生きている。

終わりのない要求の数々。
自我の「人生(私)を良くしたい要求」。

私の直近の最たる自我の要求はエルメスのバーキンだ。笑
現実世界ではびっくりする要求かもしれないれど、ノンデュアリティ的には軽い要求が起きているだけともいう。

バーキンは「巡り合う」という奇跡が起きた時にやってくるもので、簡単に店頭で買えるわけではない。相当な上顧客でもない限り。
これは「私」が良く見える?と信じる自我から起こる要求でしかない。
バーキンに限ったことではないけれど、近くの商業施設に売っている1980円のバッグや簡単に手の届くものでは自我が納得しないのである。
自我は本当に恐ろしい。

そしてこれは特に今の私にとって、要求であるけれどどうでもよいことでもある。
苦しんでいるわけでも悩んでいるわけでもないからだ。
過ぎ去ってはふと思い出すものでしかない。

なので、現実世界の「思考」では高価なものを欲しがる欲深な人間ともいうけれど、ただ「ほしい」という起こることだけで見ればたいしたことではない。

欲しくて欲しくて、寝ても覚めてもバーキンで、これがなければ死にそうなほどプライドが傷つくような場に身を置いていたら、それは苦しみかもしれないけれど。

苦しい時、悩みのドツボにハマっているときは、それ一色になるから、一刻も早くその状態から逃れたい。
・・当たり前だ。

この当たり前のこと。
我欲があることがいけないわけではない。
喜怒哀楽も起こること自体は、本当は悪いわけではない。

楽しい、嬉しいがある限り、苦しいことも悲しいことも二元の現実では当たり前に起こるものだけど、嬉しいことや楽しいことは自分にとって何もない(違和感がない)かのようにスルーされ、苦しみや悲しみの方はどうしても違和感としてクローズアップする習性があるから、そこに注意が向き立ち止まってしまう。

何かに意味や名前を持たせた時、良いとされるものを手に入れ、悪い意味のものは排除しなければ、良い人生にならないという思い込みで、今を良くないこととする そんなことがただ起きてしまう。

バーキンも100均のエコバッグも、質やネームバリューを追求しなければものを入れるだけのものだ。
思考とラベルの世界にいる操り人形が「私」。


名前のついたものへの囚われ、思考は無限ループなのだ。
何かを得ても苦しみや悩みが解決しても、次、次、次、また次・・・・・

ただ起きては消え、また起きてくる。
それだけのこと。

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