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誰もが陥る「私」という人生ゲーム22

観察者もいない

通常は「私」という認識があって、私が様々なことを選択し行動していることになっている。
私にも「私」という感覚はもちろんあるし、「私はいない」と言っても、この世で生きているのだから姿形がないとか、感情も思考もないなんてことはありえない。そういうことではなく。

通常、私がいて私が何かしているという、それがなくなる、私は介入できないのだが、「私はいない」を表現した途端に、正しい書き方ではなくなってしまうので、言いたいことは正確には伝わらなくなるというループが生まれる。

「私」が伝えたいことをどう捉えるかは、そちら側にいる「私」の解釈がどうしても入るから。「私」は「私」以外の「私」からは正しくは捉えられない。誰でもそうだけれども。

なんという、理屈っぽい書き方なんだろうと思うけれど、本当にそうとしか表現ができないのがノンデュアリティ。

「私」が書いていることは「私」が存在しているし、「書こう」という意識もあるし、なので正確に「それ」を伝えることがそもそもできない。

ないことを表現することは不可能だ。
(政治家の常套句と同じ)


楽にはならない

「私はいない」というのは、ただ起こっているこのエネルギー的な現象がそもそも一体から出てきている、その出どころがただ「それ(無)」なだけで、姿形や苦楽がそれによりなくなります、という話ではない。

ただ、今までより苦しさの度合いは軽減されることもある。思考が「私」ではないことが明らかになるからだ。ただそれも「私」がそう「認識」したという「私」が介入して伝えていることだけど。

いつでも起こることは起こるので、大きな苦しみという現象が現れれば、大きな苦しみとして「私が感じる」のは当然。その苦しみ感そのものが完璧に起こる。

起こっただけ。
本当はそれのみだけれども、そこに理由や原因や対策をするのが通常でいう「私」。
私自身はそもそも「なぜ起こるのか」までを考える質を持つキャラクターなので、「私」はつねにある。私がいなくなったわけではない。
「私」はいなくなれるわけはない。

それが「私がいない」の完璧さ。
伝わるのだろうか・・

例えば、「私らしく生きる」なんていう表現が多く使われるのを見かける。それはその人本来でないと違和感を感じて苦しいから、私らしくありましょうと言うのだと思うけれど、ここでも「らしくない」と感じていることが完璧に起こってしまう。

「違和感を感じよう」という思考が湧いたあとに、違和感が起こるわけではなくて、違和感が起こり、思考が起こり、それをどうにかしようとする。思考が働いた時点では「私」が介入してくる。


すべて自動で起こる

これは明らか。勝手に起きてる。
次に何が起こるか、それをいちいち一つ一つキャッチしている人はいない。
この文字を打つのに、キーボードのどこを叩くとか、いちいち一つ一つ考えて計画してなんて「できない」。自然に起こってくる。
何か考えが湧くならば、それもどこからともなく湧いただけで、それを湧かそうと思えるのか、絶対にできない。

その完璧さに意味を持たせることができるだろうか?
意味などない。
意味は後付けの「私」特有の解釈。

「今日」が良い日なのか悪い日なのか、それぞれの「私」の解釈次第。
自分の解釈で今日をラベリングするのみ。

「私」にとっての今日は仕事的には少し面倒な作業のある日なのだが、それは「私」特有のもので、「今日」を正しく表現したものとは違う。

それと同じ。
その無のものは正しく表現しようとしてできるものではない。
完璧。

「私」は何もできない。できないのは根本的にいないから。
降参。それすらもただ起こっていること。
鏡に鏡をかざしたときの、永遠のパラドックスにしかならない。
ただそこに起こる。

どうにもこうにも「  」にはお手上げ。 





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