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一瞥体験から見た今。愛をみんな探してる

文字にするのはとてもむずかしい。
こんなタイトルをつけておきながら、そもそもが「愛」なんてことを語ることはできないな・・

というのが、愛をあえて表現するのに一番近い心情。

今この瞬間が愛で、形はまったくないけどすべてある。

語るにはあまりにもムリがあって、知識としてではなく体験と体感と、本質をどう表現すればいいか、どれをとっても正解であって不正解になってしまうような。


それは何の予告も前触れもなく、起こるように仕向けたわけでもなく、
突然起こった。

どうやって起こるのか、なぜ起こるのはわからない。
人によって違うのだと思うけれど、
私の場合は、「一心不乱に?無心に?無意識に?いつもどおり」夕飯の支度をしていた時だ。

突然収縮がはじけたような「割けたような」感覚が走り、自分?の感覚?が一瞬にして全体に溶けた。
それは個体が水に溶けて、全体になる そんな感じで、

一瞬にして「これが愛だ」とわかった。

水のような世界。

ある一部の人から見れば、頭がおかしくなった と言われるだろうけれど。

とても安らぎで満ちた、何の恐れもない、不安もない、本当に安心感でしかない世界というか空間が目の前にあった。
どうしようもなく涙が出てきた。
夕飯を作りながら、お鍋の前で号泣。

想像すると、その光景はかなり笑える。


その後もごく普通に、いつも通りの生活をしている。

ただ変わったのは、何かを「掴む」ことがなくなったこと。

何かあった時に、それを自分の出来事かのように問題視することがなくなった。

色々と出来事は今まで通り起こるし、感情や考えも湧くけれど、それについて、いちいち考えることは激減した。
一瞬考えたり、悩んだりする瞬間は、これまで持ち続けてきた分離感の名残なのだと思うけれど、「あ・・」、とあの体験を思い出すと、全部愛だから(良い意味で)どうでもよくなる。

自我はなくなるものではないから、問題らしきことは起こるけれど、
今までは問題のように思えていただろうことは問題ではなくなる 

好きなように日々を過ごすだけで良いから。

ちょっと困ることをしいてあげれば、何かやらなきゃ!という情熱とか勢いがなくなることだ。
どうでも(どうであっても)よいから。


愛はそもそも、良いとか悪いとかの区別がない。

何をしようとどう生きていようと、誰にでも毎日は当たり前に自動的にやってくる。完璧に満たされている。様々な喜怒哀楽が起こること、五感があることも。
日々の生活や人間そのものも愛。

自分が持つ感情も、高揚感のある幸せ感を感じる時もあれば、悪魔のような感情を持つこともある。
良し悪しじゃないから、それを包括したその先というか。

それなのに、どちらか一方の「気持ちの良い(ポジティブともいう)」感情で満たされる時を「幸せ」とくくってしまった人間の性質?が、そもそも在るものを遠ざけてしまったのだろう。

良い、悪いで括ることが当たり前になっているから、良い出来事かそうでない出来事か、そのどちらかの出来事が私たちの生活の中で起こった時に、さらに「求める」ことが起こる。

求めることは苦しみを創る。
苦しみが「良くない」のであれば、「良い」状態になろうとしてしまう。

良い状況であっても、さらに良いものを求めてまた苦しくなる。

人間関係は鏡とよく言われるが、それもそのとおりで、
まったく自分と他人は分かれていない。

全体からしたら、自分も他人もないのだけど、
通常の認識としては自分と他人は別物だ。
ただ、その関係性は1ミリの狂いもなく自分と他人が現れている。

よくノンデュアリティで言われる、「現れ」。

本当にそのとおりでしかない。


「個の現れ」という映画を観てる観客(全体)がいるだけ。
観客だと気づいた瞬間にまたそれを見ている観客がいるから、無限ループ。

そして、良い意味で「どうでもよくなる」

のである。

考えたり、悩むのはばかばかしくもなり。

別の見方から見れば、「つまらない世の中」になるとも言い、
逆に「めちゃくちゃ楽しい世の中」になるとも言う。
毎日タダで「個の現れ」をあきることなく観てるのだから(笑)

映画は自動的にフィルムが回り、出来事の反応として感情なり思考なりが沸くのは俳優(自分と思っている)で、その思考なりは次のシーンに影響をほんの少しだけ与えている という感じ。

観客はを見ているだけで、自分で何もする必要がないのだ。


これまで一般的な普通の仕事もし、カラーを学び、占星術を学び、心理
を学び、経営にも携わり、挙句の果てには脳科学に興味を持ち。

一瞥体験をするまでは、スピリチュアル的な観点からのことに意味を見出してもきたが、
現実主義であれ、スピリチュアルであれ、科学であれ、ただ偏向している時は本質は見つからない。

何かに固執している時点で、次々またそれと違う何かが現れてきてしまう。

求めても手に入らないもの(根源の愛?のようなもの)を意識的にも無意識的にもみんな探している。
何をどう探求しても、次々と探求が止まらないのは当たり前で、
世の仕組み的にも法則的にも、求めても手に入らないとわかった時、あきらめた時、なかば自分をあきらめた時手に入る。

その仕組みとやらも、勝手に仕組まれているもので、いわばお手上げで良いのだと思う。

以前の記事にも書いたけれど、「放擲」状態?の時に現れるのだろうと思う。

まったくわけのわからない記事になっていると思う。
それでいいのだ。


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