見出し画像

理解でわかっている気になっていることと、それは全く違う。

非二元=ノンデュアリティを多くの方が発信しているので、理解や知識としてはわかっている方も多くいると思う。
私もそうだった。

でも・・知識で知っていることと、実際にそれを経験したことには、とても大きなズレがある。

実際にニューヨークに行ったことのある人と、ガイドブックやネットでニューヨークを見ていることの違いに等しい。
ゴルフを実際にしている人と、傍から見たゴルフも違うだろうし、とにかくそういうことだ。

旅行やスポーツなら軽やかだけど、これが自分のことだと、人はものすごい拒絶感を感じる。

スポーツや場所であれば、行った気になっていることを行ったことあるなどと言う必要もないけれど、なぜノンデュアリティは理解をそれを自分のものにしたようにしてしまうのか。


非二元は楽になるものではない。「それ」を経験しても何も変わらない日常が続く。
楽になるなら「楽になる私」という個がいることなので、ズレている。
非二元は「楽になる私」が目的地ではないのだ。
「私」が得るものではないものを指している。

それを経験しても、それを所持することは全くできないのだけれど、あたかもたどり着いた=所有しているかのように頭での理解にしてしまっている時・・

それはまぎれもなく、
「自分のため」  だ。

理解をあたかもそれにたどり着いたかのようにすることで、自分が高いところに昇ったように感じるのかもしれないし、苦しみがなくなるような感覚も一瞬あるからかもしれない。

「私」が良くなるために、知識をそれだとしてしまっていることを顔を背けることなく発見することにより、よりその経験に近づく(であろう)のだけど、どうしてもそれを直視することは避けたいのが常。
拒絶という反応が起こる。
次に何が起こるかというとそれを発信する者(ここではMars)に対しての批判。
上からものを言っている、自分だけ特別みたいな言い方をしている等。。

でもでも、それはまったく違うのだ。
上下という二元も、特別もないから、その解釈はここでは起きていない。
それを経験していたら、その批判は出てきようがない。
この記事に同感ではなく、拒絶や批判という反応が起きていたら、それは知識を得ている状態であることが明らか。

かといって、それをいけないとか批判しているのとも全く違う。
それは経験でないと絶対にわからない。
多くの人が批判や拒絶が起こることを想定してこの記事を書いているのだけど、でも非二元はそうだからそう伝えるしかできない。

拒絶や批判が起きることが悪いということでは全くない。
それなのに拒絶や批判が起きるのは、自身の中にある何かが反応をしている。
それを取り払える瞬間。
その経験が起こるとここに書いてあることが理解ではなく経験として頷けると思う。

批判や拒絶、それが起きてもまったく問題はない。
全部、非二元のそれから出ているから。




いいなと思ったら応援しよう!