誰もが陥る「私」という人生ゲーム⑫
「私」の正体はない
「私はいない」という、理解不能なもの。少し考えればなるほど・・と思えるところを少し書いてみます。
これは理屈とか理論や知識として「知ることのできないもの」で、あくまでも体感でしか得られないものです。
まず、私の正体は決して見ることのできない「愛」という空間です。
これは正しい呼称ではありません。私が例えているに過ぎません。
普通にしていて「感じ得ることのできない安心感」を感じ得ることはできません。感じ得ようとしても感じ得ることはできません。
だって、感じ得ることのできないものだからです。
しかし、体感した瞬間に「愛」とわかるのだと思います。
(それを束の間体験するのが、いわゆる一瞥体験。)
なぜわかるのかは、おそらく人間が無意識にそれだとわかっているからだと思います。これも愛なので言葉も正解もありません。
そこを名称で指し示す「言葉」はなく、「正解」もありません。
ノンデュアリティを伝えている人は、この空間を「それ」「全体」などと表現することが多いと思いますが、まさに「それ」「全体」としか言いようがありません。
「私」はそのすべてを含有している空間(本来の私)から出現しているにすぎず、本質的な意味でも、私は空間でしかないので私はいないのです。
全部私の中に現れる。
「私」を主張する「私のもの」という感覚
ほとんどの人は洋服を着ていると思いますが、私の洋服、あなたの洋服、色々なデザインやサイズ、色があります。
あなたは今日も洋服を選んでいます。
今日の「私の気分」の洋服を「私の意思」で選びます。
洋服は「私の体」に装備するもの。
装備するものを見に着けるために「私の手」を使います。
それを身に着けて、「私の予定」をこなしたり、
「私の仕事」をしたり、「私の友人」と食事したりします。
夜になれば、「私のベッド」で眠りにつきます。
「私の〇〇」って、誰しもが普通に使うのですが、その「私」って?って話です。私の体を所有している私って誰?ってことです。
いないのです。
感覚的なところで「私」と言ってはいますが、正しい私など誰も見たことはないのではないでしょうか。
「私」がいないけど、出来事は勝手に起こっている
自分と他人を区別するためのワードが「私」。
今のところ、どこにいるかわからないので「私」は言葉でしかありません。
しかし言葉は私ではないのは明確です。
私がどこにあるかもわかっていないのに、私という存在を観念として持っていますが、いることもわからないのに、いないことは体感しようがありません。
反対に、いないことを考えるとわかる。いることの方がわからない。という方が理屈としては成り立つ気がします。概念的に。
さらに不思議なもので、誰もが自分の意思で何か物事を起こしているかのように「私」は思っています。
しかし、私はいないのだから物事を起こせる「私」なんていません。すべて自動的に起こっている。としか言いようがありません。
自動的に起こったことを感じ認識し、何かを思ったり考えたり、行動したり。それが瞬時にまた起こるという、信じられないすごいことです。
信じられないことをすべて起きることを許しているのが愛=私という無の空間。
ちなみに、思うより行動が先であることは脳科学?認知科学?脳認知学?で立証されています。