誰もが陥る「私」という人生ゲーム①
もはや「ストーリー」にしていること自体が違うことになるのだけど、それでも少しでもその「空間」に近くなるように表現したいと思います。
よくこの世界は「映画」のようなもの。と表現されます。
まさにその通りなのですが、この世界には「時間」というものを存在させてしまったため、とてもわかりにくくなっているように思います。
映画は2次元(平面の世界)の連続として、スクリーンに映し出されます。平面の連続がストーリーとなります。
それを私たちは観客として見ています。
この世界は3次元(奥行きのある立体の世界)です。そこに時間が加わり4次元も共有していると言えます。
時間という概念があるため、過去・現在・未来 という括りができてしまい、それらに囚われて私たちは生きています。ストーリーに過去・現在・未来が現れました。
過去の出来事は「記憶」のように感じるし、その記憶とやらを元に未来を勝手に予測し不安になったりします。未来は自分にやってくることとして捉えるため身構えます。
私たちは、3次元の世界の中でしか自分や他人、起こる出来事を見ていないし、それ以外のことは理解しがたいので、「怖い」のです。
そして自分と他人は「別物」として捉えるので、自分に何か起きやしないかと無意識に怖さや不安があるため、自分を守るために(無意識的に)必死です。
その怖さ、恐れをどうにかしようと探求します。何かを求めます。
もちろん私もすべての次元を理解はしていませんし、数学的に綿密に語ることもできませんが、ただ言えることは枠から離れた私たちの源であろう世界がある、それを垣間見る体験(一瞥体験)をしたことによって知ったものがある、そこから見たこの世界の成り立ち です。
この「一瞥体験」はある意味厄介です。それを体験したからどうということは全くもってありません。何も変わらず相変わらず平凡に生きているだけで、逆にこの体験があったことで、この体験を常に味わえないことが悩ましくも思います。
私たちは例えて言うならば、水たまりのようなものです。
水たまりに小石を投げるとその石の大きさに合わせて水しぶきが上がり、周囲は石が基になり振動し、波紋となって輪が描かれて広がっていきます。
水たまりに石を投げたことで、エネルギーが加わったわけです。
人生はただそれだけのことです。
その波紋や小石になんの意味もありません。
投げた石はどこから投げられたかはわかりません。その石のしぶきなのか波紋なのかを見た私たちは、それに意味があると信じ、自分の都合の良い解釈をつけます。
起こる出来事を、何の意味もなく見ていることがなかなかできません。
それをただ見ているのが映画なのですが、映画ですらそこに感情移入してしまうことがあります。が、映画が終われば我に帰る?わけですね。
そして、「人生ゲーム」とゲームがありますよね。子供の頃よく遊んだものです。
私はそれに例えるのが一番わかりやすいと思っています。
車のようなものに自分というコマを載せて、人生という旅(ゲーム)をしていきますよね。
それを見ている(それで遊んでいる)のが私たちです。
人生ゲームは既にレールがストーリーが描かれていますが、人によって立ち寄る場所が違い、起こる出来事が違います。起こる出来事により人生が違っていきます。
そして、その遊んでいる側でいるのが本当の世界なのですが、ほとんどの人は「ゲームの中の自分(コマ)」に感情を乗せ、それが自分であると信じ切っています。
そして、自分の意思で人生を創り上げていると思い込んでいます。
しかし、人生はすでにレールが敷かれています。それは映画でもゲームでもそうですが、リアルに経験しているかのような人生も同じです。
みんな同じ源の水たまり(と仮定します)があります。そこには何もないのですが、人それぞれ(感情や思考も含む)が振動を起こし、様々なこと(出来事や人、モノ)が一瞬にして現れます。
この振動が起こると、次はここ というように、次に現れるものは既に出来上がっているのですが、そこに意識を向けるまでそれは存在しません。
この世界は何も無く、すべてがある のです。
それは自分で創り出したものではなく、意識を向けないから無いだけで既にあります。
自分がコントロールはできないものなのですが、人はどうにかして良い現実を創り出そうとしています。
「思考が現実化する」
と言われますよね。私もそう思っていました。一瞥体験をするまでは。
本当に思考のとおりになる(ように思える)こともあるでしょう。
しかし、厳密に究極的に言えばそれも最初から決まっています。
要するに、起こることは起こるけれど、起こらないことは何をどうしようと起こらない のです。
引き寄せがうまくいったように思うことは、最初から決まっていたから起こっただけのこと。
引き寄せがうまくいかないように思うことは、最初から起こらないと決まっている のです。
私たちは幸せになるために何かする必要は本来はないのです。
不幸に思えることでも、それは誰かのせいでも自分のせいでもなく、ただ起こったこと。
人生ゲームのコマ(この現実でいう「私」)が体験したこと です。
コマは出た数(振動)によって、行先が決まり、その通りにコマを動かしますよね。
コマ(実体)を私たちは「自分」と思い込んで握って放せないのです。
ゲームをしているのが、(実体のない)私です。
そしてゲームをしている私を見て(見てもいない)いるのが、「全体」です。
何をする必要もないし、完全にゲームに浸かっている思い込みの自分から抜け出し、ただ自分であるかのような体験(ゲーム)をし、最後はただのそれであるだけです。
私たちは「全体」でしかありません。そして全体には私という個人も他人もありません。「ない」のです。
私や他人は、全体から囚われた枠(私や他人というラベルを貼り付けた瞬間)を設けた瞬間、全体から離れた瞬間にしぶきのように生じたに過ぎません。
現実にとらわれ過ぎていたり、スピリチュアルを妄信し何かを良くしようとしているのは「とらわれ」の自分です。ゲームの主人公になり切っている状態です。