本当に残念で素晴らしい話5
スピリチュアルを信じ続けても、楽にならない
世の中にはものすごい数のスピリチュアル情報があふれている。
私もそれを楽しんでいた時期もあるけれど、次に科学的根拠の方が重要になり、そして今は楽になるための何かはいらないことと、既にすべてあることだけが事実になった。
かといって、「楽だけがある」のとは違う。
それを求めているとしたら、それはこの現実世界にはない。と言い切れる。
何かを「特別なものと信じる」と答えがあるなら、全員が今すぐ楽になれる。
それなのになれないことに疑問が湧かないだろうか?
それではないということだけが事実ではないだろうか。。
でも一度何かを信じてしまうと、それが違うことが受け入れられない。。
自分を否定しまうのが怖くて仕方ないのである。
知識を求めても楽にならない
自分(と思っている私という概念)が、腑に落ちることでないと納得できない。
ここが「note」という「空間(場)」だということは、誰もが理解できるから納得する。
それ以外ということには納得できない。
それと同じで、知識をたくさん仕入れたとしても、本当に「そうだ」「それだけが事実」「それ以外ない」とその人がなる以外納得できない。
だから納得できることを次々と求めていく。
だけど知識には納得できる、体感できる充足感がない。
その無限ループを性懲りもなく続けるのが人間。
かくいう私も、一歩逸れると、というより、
この現実を生きている限り性懲りもなくなる。
それが3次元世界のエネルギーだから、それが間違いではないけど、
真の何かが違うことを無意識に知っているから、どうしても探し求めてしまっている。
その夢の中から出たい感覚をリアルに体験している。
それがリアルだから気づけない。
それ(答え)は突然やってくるから、探す必要はない
その瞬間は突然やってくる。
なろうとしてなるものでもない。
地震みたいなもの。
すべて同じ構図になっている(と思われる)から、
用意周到にしていること、知識として得ていること、概念や思考で
その瞬間(完全な充足感)は得られない。
地震はいつ来ますか?に明確な答えが出ないのと同じ。
自然分娩がいつ起きますか?に明確な答えがないのと同じ。
全部自然現象。
自然現象として何かが現れたとき、それが現れる時期を知る必要も、何かを知るとか求めることもできない事実だけを勝手にすでに経験してしまっている。
でもその現象、出来事もおかまいなしに、また次の出来事がやってくる。
事実、現象は一瞬でしかない。
得ようとしても得られないものの答えを知ることはできない。
知ろうとして、また現実世界という思考の夢の中に突入する。
知識や概念、思考を形にしていることに、真実(求めている解放)はない。
赤ちゃんが生まれたら、現実が待っているのと同じ。
子宮という安心安全な場所から、自我と思考で自己防衛するこの世界に誕生した事実。
幸せと思い込んでいること(=概念、思考)に本当の幸せはない。
幸せがそこにあるなら、思いこんでいるということ。
本当の意味での事実「それそのもの」は見えない。
(自分と思っている自分)の姿はリアルで見ることができないと同じ。
自然現象は事前に用意される、理解で解決できるものではなくて、
自然に起こるもの。
だから自然現象。ほんとにそれそのものでしかない。
それを解明しようとした瞬間に、あっという間に謎でしかなくなる。
でもこれも、書いている瞬間に二元の現実世界では概念になる。
いつも同じことしか書けない、それはそれでしかないから。
方法はなくて、ほんとになにもないから。
なにもないのに、すべてが満ちている空間
それを体感している、完璧さ。