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誰もが陥る「私」という人生ゲーム④

緊張から解放された瞬間だけは深刻になれない

想像してみてください。
さむーい真冬に温泉に行ったとします。温泉に浸かったその瞬間。
誰しもが「ふぅっっーっっ」(それをどう表現するかはそれぞれ(笑))と、なんとも言えない気持ちの良さを感じると思います。

寒くて縮こまっていた体が解放されて感じる気持ち良さですよね。
温泉に浸かったその瞬間に、日頃感じている深刻な問題を考えられますか?

考えられない。。ですよね。

すべてから解放されているからですよね。

無意識に解放を求めて、温泉に行きたいと思うわけです。


考えに囚われていない、緊張から解き放たれている瞬間に在るもの。
そこにはなにもないということ。

何にもとらわれず、縛られず、何かから解放され、ただ幸せな瞬間と空間。その瞬間て、私と思い込んでいる思考が作り上げた「私」っていなくないですか?ただそこにその気持ちよさを感じる感覚はあるけど、「私はいない」瞬間。

結局何かを思考している「私」から解放された時が、あなたの望む一番ものではありませんか?

ただ体感したい。その瞬間を感じたいのです。「私」からの解放を。

そして温泉に浸かった次の瞬間、また何か考え始め「私」を形成しますが、浸かったあの一瞬。それこそを人は求めています。

求めても求めても、「持ち続けることのできない思考のない瞬間」を求めるけれど、人は思考しなくなることはできない 

だから何かを手に入れても、また次を求めてしまう。

いくら「思考を止めましょう」といっても、止めようと思えば思うほどそれは止まらないのです。
「止めよう」と思った瞬間にそれは思考となる
ので・・。

ダイエットはしようとすればするほど食べたくなるし、内緒話ほど人に話したくなってしまうし、

「今この瞬間にいましょう」といっても、瞬間に居続けることはできないし、自己肯定感を高めましょうといっても、できないものはできない。

至福の瞬間を求めなくても、その「私のいない」空間はいつでも本当はある。
でも思考を始めた途端になくなってしまう。

私からの解放を求めているのに、人は「私」をいつも気にしてる。


「私」が不快を感じない何かを一生懸命探しています。
何かをしようとしていない、何も考えていない無をあれだけ心地よく感じ、求めているにもかかわらず。

次々と起こることは起こる。
思考も止まらない。

だからこそ本当は何もしなくていい
思考がつくりあげた私らしき体しかここにはないのですから。
私がいない私らしき体がそこに在る だけ。

私はいないから「何かをどうしようとする」いつも緊張している、縮こまっている「私」は存在のしようがありません。

人間は時間を作り上げてしまったので「継続感」を感じ、苦しみは長く感じ、喜びは継続を求め、それによってもがいている「私」という幻想を作り上げてしまっているけれど。


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