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誰もが陥る「私」という人生ゲーム⑪

私はいない

今回の記事。
多くの方が抵抗を感じ、多くの方が「わけわからない」、
要するに通じない話になると思う。
「話」と書くと、概念になるので正しくはないのだけれど・・。

私は自宅で仕事をしている時、BGMをかけている。
作業をしている時は、その曲を「聴く」ことはない。

意識はしていないけれど流れてはいる。のであろう。

ふとBGMに意識を向けた時、それは明確に自分の中に存在してくる。

作業を全く邪魔しないBGMは心地よいということ。
なぜ心地よく感じるかは、あれこれ考えずにいられる瞬間があるから。

以前の記事に書いたように、温泉に浸かった瞬間の何も考えない一瞬と似ている。
耳障りな音楽であれば、途端にそこに意識が向き作業どころではなくなり、心地よさとは程遠くなる。
それに意識を向けている「私」が存在し始めるから。

人は作業をしている自分を「私」と思っているのだけれど、
本当は作業をしている時間に余計な思考を巡らせていない、
=「私(を意識していない)」がいない空間を求めている。

その空間にこそ、安らぎがある。
「私」がいないところに安らぎがある。
「私」がいる以上、安らぎからは遠ざかる。

意識はしていないけれど常にそこに現れている。


意識してそれを見つけるのは非常にむずかしいのだけれど、
絶対的に完璧に確かにそこにあるもの。

「私」なんて固有名詞を持つものは本当はいない。
「私」すら包括している。
「私」をなんとなく存在させている何かでしかない。






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