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本当に残念で素晴らしい話3

自我は手放そうとしない方がいい

手放そうとすること自体が、手放せないスタートに立ってしまうから。
いわゆる現実は、概念や自我でガチガチに固められている。
だから、そこにいる以上は自我をなくすとか考えない方がいい。

自分がいる という感覚がある以上、それはムダな努力になりかねない。
そこで苦しんだり執着になるなら、自我をなくそうなんて遠回り。

居場所や楽になれる場所を探している以上、それは現れない。
見つけるものでも、見つかるものではなく「そこに既にある」から、
とにかく、何もしないで自我があろうとなかろうと、そんなことに囚われずにいることだ。

でもそれを書く時点で、執着にしてしまうことがまた無限ループ。。
(本当にごめんなさい)

どこの視点から書いているのか

そこにずっと居続けることはできないし、今、私がそこに居るわけではないけれど、それを体感した事実を書いているに過ぎない という前提で。

どこかにあるわけではないし、でもどこにでもいつでもそれがあるからわからないのだけど。

本当に何もない「無」だけれど、何も考えずにして「愛」である空間。
それは目の前にある。あるというか、それそのもの。全部。
「愛」と書いたけれど、それが愛という名称もないし、定義も何もない空間がある。
あるとかないとかではなく、そのものということ。
その空間に漂った瞬間にあった(正しくはなにもない空間)もの、それを体感した「私」が「これは愛だ」と認識したことを書いている。

でも今これを書いてる「私」は、既にスクリーンがあるわけで、
それを正しくは表現することは不可能なのだけど、とにかくそれに一番近い表現で書いてる。つもりだけれど、感覚は人それぞれで捉え方が無数ある。
「捉えた」時点でこれもまた違うものなのだけど。

・・きっと全然伝わらない。。
本当に残念で。
でも素晴らしい完璧さのあるそれがそこにある。


選択肢はあるように思えるけれど、ない

思考や概念で見る(考える)のではなく、五感の事実をよーーーく見ればわかる。
これまで自分の意思でしたことは何もないのだ。

何かを選択して、決定して、脳に指令を出しているのが「私」であるならば、誰でも魔法使いになれる。今すぐ思考を止めることもできる。

次にどんな行動をするか。
何を考えるか。

それはどこから来るのか。
誰もわからない。

時間は3次元での認識に過ぎないから、それを上位次元から見た時、時間の経過で何かが現れたわけではなく、すでにすべてが同時に存在している。すべてがあるけれど、脳の装置が働いて、過去や未来という認識が動きのように見えているという、それも「私」にコントロールできない。

「私」は何かを選択して動いているわけではなく、勝手に動いている。
「私」抜きに現れている。
完璧に。

「私」を介在しなくても完璧。
お手上げだ。降参。

残念。

でも、何もしなくても全部ある。
3次元の視点こそどうなってるんだろ(笑) になる。
私たちが2次元で生活できないように。


と書いてきているが、「~しない方がいい」なんていうことも何もない。
することもしないことも、どうでもいい。
してもしなくても、結局は降参。






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