倫敦の汽車
旅情を誘う鉄路を、ガタゴトガタゴトと揺られていく。
前の方から煙がやってくる。警笛。力強い蒸気の動きがおしりの下からゴトゴトと響く。
男は、女に逢いに行くものだ。
昔は徒歩だった。籠だった時代もあろう。今はすっかり汽車であった。これもやがて電車になるとかならないとか言う。
電気会社が引く小さな電車は少しづつ増え、市民の足となっているが、長距離移動は未だに汽車だ。あるいは船か。
あぁ高いお金があれば、船と汽車だけで倫敦にも行けるのだ。あの憧れの倫敦に。
男は、駆け落ちをするつもりだった。女の家は旧家で、それは厳しい家であった。男は女の父に認められていなかった。
ようやく四民平等になったというのに。男はぼやく。君の父親が時代遅れなんだ。僕らの運命は時代の追い風を受けられるし、社会的な身分なんて乗り越える。ロミオとジュリエットを見よ! 男は甘い言葉を女に投げかける。
女は悩んでいた。女はまだ男ほどには新しい文明と価値観に馴染んでいなかった。家のしきたりというものにそれほどの束縛も感じていなかった。男と番になることが許されないという一点を除けば。
そして実際彼女の両親が、その男の結婚を許さないのには一定の合理性もあるのだ。
男は社会主義にかぶれていた。男はおそらくこの国では早々に資本論を読んだ人間であった。
しかし実際のところ男がかぶれていたのは社会主義だけではなかった。進歩的とされる西洋的なものにはだいたいかぶれていたのだ。
男は、倫敦を思う。労働者の街を。そして男はそこにこそ自分の居場所があると信じていた。彼らと共に立ち上がる日を夢見ていた。
女はそのような浮世離れした男の夢には辟易していた。だから彼女の親が彼との結婚を止めたのは少しばかりありがたいことであった。
汽車は次第に暗闇の中に溶けていく。生い茂る木々が男にはタイガに見えた。倫敦へと向かうシベリアの大地を夢想する。しかし森は長くは続かない。遠くに街のガス灯の明かりがチラホラと輝き始めた。女のいる街だ。
汽車は駅に滑るようにやってくると、キキッーとブレーキの音を立てて止まる。男は、駅のプラットフォームに降り立った。
改札の向こうには女がいた。そして女の父も。
男は悟った。女は運命を選ばなかったのだと。束縛の中で安寧の泥水を啜り朽ちていこうと考えているのだと。男の中で輝いていた女の微笑みは、汚い嘲笑へと変わった。
女は駅に降り立った男のことをじっと見つめていた。男がこちらに気がついた時、女は男の瞳に動揺と落胆が通り過ぎたのを見た。
男は踵を返そうとする。女は慌てて叫ぶ。待って!
男はその声を聞いて立ち止まる。
女は問う。倫敦に行くのよね?
男は無言で首肯する。
女が呟く。父がね、認めてくれたの。
男は振り返る。
女の父親は黙って頷いた。
男は、後悔に苛まれる。
女がさらに言う。向こうでやって行けなくなったらこっちへ帰ってきてもいいって。あなたも私たちの家族だからって。
男は再び背中を向けた。肩を震わせた後に、男は女の父に頭を下げる。
ありがとうございます。精一杯頑張って行きます。
駆け落ちは駆け落ちでなくなった。
10年後、男と女はその街で生きていた。
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