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母との時間

1980年8月12日に母は彼方に旅立った
母の病状がよくないことはわかってたが、信じたくない気持ちが大きすぎて拒否し続けていた
それは、母と私の幸せな時間がくることを願っていたから

私が先天性心疾患とわかり10歳までの命の保証はないと医師から告げられた日から、母の苦悩ははじまった

3歳の夏、祖母が亡くなった
家族に見守られ横たわる祖母は、私の名前を繰り返し呼び「お前の病気は全部持っていくから」と言い残し息を引き取った

当時3歳とはいえ、この言葉を誰よりも理解し、誰よりも信じたと思える

10歳、私は生きていた
実際に病気は消えてはいないが祖母の言葉が支えとなり、「生きる」ことは当然のことだった

でも不具合はある
友だちと同じことが出来ない
体育は見学
修学旅行は保護者付き添い
寝る部屋も違う、
夕食に至っては「ゆっこちゃんが可哀想だから何人かのお友だちは一緒に食べてあげましょう」ときた

私は可哀想なんかじゃない!
可哀想にさせられてるだけだと叫びたい気持ちを押し込めて二日間を過ごした

この修学旅行での出来事が私を動かした
このままでは本当に「可哀想な人」になってしまう
母に「お母さんは手術をしたら私が死ぬと思うの?私は死なないよ!」と伝え、手術をせがんだ

ちょうどそんな折に、
この記事が新聞に掲載された

記事を頼りに、父と母と3人で東京女子医大へと向かい、同じ年の11月20日、和田寿郎先生執刀の元手術をして頂いた

後で思えば、その頃には母の身体には既に癌があったのだと思う
でも自分の身体のことに構ってはなどいられなかったのだろうと想像はつく
手術を終え、クリスマスに退院し、新年を明るい気持ちで迎えた
あの時の母のどこか誇らしげな表情といったらなかった

ようやく母との幸せな時間がはじまり、これからはじまる人生の新しいページが輝いて見えた

でも、そんな時間はあっという間に終わりを迎え
中学入学後ほどなくして母は入院
父の態度からよくない病気であることを察した

私は収まりのつかない葛藤を、あろうことか母にぶつけた
「お母さんどうして」
「お母さんもっと近くにいて」
「お母さん、お母さん…」と
母は弱る身体で精一杯応えてくれようとしたが、治療の甲斐もなく、あっという間にこの世を去った
享年55歳


母の葬儀が終わり、私は水疱瘡に罹った
四十九日忌まで出校停止となったことは、母がせめて忌明けまでは一緒にいようとしてくれたのではないかと思う
父が仕事に出かけたあとは、遺影の母に話しかけては二人でとても静かで穏やかな時間を過ごした

お母さん、
私、お母さんが亡くなった歳を越えて
元気に生きてるよ
そして孫も生まれたよ
だからかな、もっと一緒にいたかったってって泣けるようにもなりました
まだそちらには行けないけれど、見守っていてね
お母さん…


最後に、
故和田寿郎先生はじめ、献血いただいた皆様、私の命を繋いでくださった多くの皆様に深く感謝申し上げます
東京女子医大で手術を受けた当時からの主治医である中澤誠先生には、今も診ていただき、身体だけでなく人生の喜びも悲しみも全て診察室で診ていることを、感謝の気持ちを込めてここに記します

2024.8.12

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