BELIEVE TO RUN荒木の檸檬 考察

モンタナ横山とスイミーカイマンの言う"BELIEVE TO RUN荒木の檸檬"とは、俺のエピソードとも言えないようなエピソードトークにカイマンが「檸檬みたいだね」と発言したことからそう呼ばれるようになりました。檸檬とは梶井基次郎の小説であり、国語の教科書にも乗っている有名な話です。
比べて、荒木の檸檬はあまりにも真剣さに欠け、若さに欠け、鮮やかさに欠けております。
それでもよければ読んでください。


先日、クンニをさせていただく用事がございました。僕は本当にクンニが大好きで、さあいざと言うその瞬間よりも先に涙が顎を伝って女性のそれを濡らしていると言われているほどです。母親の卵子と父親の唾液でできた忌み子、クンニラブフォーエバー、クンクンクンニクン、ついたあだ名も数知れず。
そんな僕ですから、その日も長い間クンニをしていたと存じます。ありがとうございました。これは僕のセックスの特徴ということになってしまうのでしょうか。クンニに満足すると僕はすぐにキスをします。セックスについてはあまりにも勉強不足で、自分が特別だと思うのはおこがましいとは思うものの、自分は普通だと主張するにも、熱意が足りない。それが僕とセックスとの距離感です。
キスをしている時に思ったんです。口の中に何かあるな。しかしキスをしていただいているというのに、口の中に指をつっこんで、細い、他の何よりも細いそれを掴んで取り出すなどという暇はあるわけがありません。僕は変なところで気をつかうところがあると指摘されることがありますが、こればかりは譲れない。俺はキスしてる時は毛をとらんよ。
キスを続ける。毛がある。キスする。毛が口の奥へと進んでいく。キスする。毛が喉に入る。毛が詰まる。後悔はありません。なんにせよ、クンニとキスができました。
それをある日、横山くんに伝えました。あれはたしかメガジャスミンの下品な家でシックスセンスを見終わった後、東中野の十番というお店で中華を食べている時でした。僕は告白しました。「実は今、僕の喉には陰毛が詰まっている。本来なるべくカハカハしたいところを、我慢している。しかしモノを食べるとなると、カハカハが抑えられそうにもない。いいかい、僕の喉には陰毛が詰まっている。」

そのことをなんか別の集まりの時に横山がみんなに言って、カイマンが檸檬みたいだねって言ってました。

これについては僕はまだ理解ができていないのです。梶井基次郎の『檸檬』という例え。
これには二つの可能性が考えられます。

一つは陰毛のことを「えたいの知れない不吉な塊」に例えているという考え。主人公の焦燥のような嫌悪のような、実態はわからないがとにかくこれに責任があると感じるような不吉。それを荒木の喉に引っかかる陰毛と重ねているという説。
僕の考察ではこれはカイマンの意図する考えではないと思っています。なぜなら陰毛はえたいが知れているからです。陰の漢字を冠しているものの、その存在は明確です。それが与える影響も、喉がイガイガするという実害であって、それを「えたいの知れない不吉な塊」とするならば、カイマンは例えることをやめた方がいい。

もう一つは、まさに檸檬に例えているという考えです。檸檬の主人公は書店で本を積み上げ、その上に檸檬を置き、檸檬を爆弾に見たて書店が爆発する様子を想像することに興じました。

私は埃ほこりっぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/424_19826.html

つまりカイマンはこう思ったのでしょう。荒木は何を喋るにも、何を食べるにも俺の喉には陰毛が詰まっているんだぜ。今喋っているこの人は、今すれ違ったあの人は俺の喉に陰毛があることを知らないんだ。という意識の元にいることで気持ちを高揚させていると。なるほどこれは素晴らしい例えです。当たってるかどうかは別として。

考察でした。これでいいか?
カイマンの「荒木は面白いなあ」ってやつ、あれ二度というな。

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