「やれば、できる!」の落とし穴
おはようございます。リユルン(@riyulun)と申します
さて 今回はティモンディでおなじみ「やれば、できる!」という言葉の効能について思うことを喋っていく内容となります
「やれば、できる!」という言葉は じこあんじとして有益で 私個人も好きなのですが、今回は注意点について書き留めてみました
参考になっていれば右下の❤をタップを宜しくお願いします
目次
・根性論だけでは何とかならないこともある
・逆に言うなら「やろうとしないとできない」
・自分に言い聞かせる「やれば、できる!」
相手に言い聞かせる「やれば、できる!」
根性論だけでは何とかならないこともある
これは 極端な話、
小学1年生に 2次方程式の解き方をマスターしろ、と言われても無理と言った方が分かりやすいでしょうか
これに限った話ではありませんが、根性論・精神論だけでは何とかならないことも世の中には いっぱいあります。
もちろん それを最初から決めつけて
「どうせ できない」なんて思うよりかは
「やれば、できる!」と思って トライした方がいい場面も世の中にはいっぱいありますけどね
この項をまとめると、
当たり前ですが アルティメットなじこあんじ方法ではない ということです
逆に言うなら「やろうとしないとできない」
「やれば、できる!」の「やれば」の部分、一体どういうことでしょうか
明確な答えは無いですが、私自身は
「自らトライしたいと思う、そんな気力が存在している状態」だと感じます
例えば、合唱において
好きだったり 探究心を持っていたりする人がいる一方で
合唱に興味が無い人がいますよね。
この違いは気力、分かりやすく言えば気持ちです
前者は 前に進みたい気持ちが存在するので、「やれば、できる!」は 良いじこあんじとなります
しかし 後者に「やれば、できる!」なんてかけても 暑苦しいなと思われるだけです
個体差というのは当然存在します
興味や やるきが全く無い人に 精神論や根性論で たきつけるのは お門違いなのではないでしょうか
自分に言い聞かせる「やれば、できる!」
相手に言い聞かせる「やれば、できる!」
前項の続きみたいな項になりますが、自分ではなく 言い聞かせる相手がいる場合、
その相手がどんな風に思っているのか 見極める必要性が出てきます
気持ちがないのに何かをやらせようとしても、それは伸びないですよね
だって気力がそもそもないんですから
例えば、子どもに水泳を習わせたい とします
ここで親のエゴだけで思考していると、折角お金も払って 子ども時代の貴重な貴重な時間を使っているのに全然伸びない なんて事態が起きるでしょう
この例えを見ると 極々稀に見る [習わせたい習い事ランキング]みたいな文が 親のエゴで固められているようにしか見えなくなってきませんか?
話が脱線してしまいましたが、これを機に
「相手を尊重すること」や
「気持ちを上手く読み取ったり伝えたりすること」の大事さが伝わっていたら 私も この記事を書いた甲斐があるというものです
それでは、今回はここまでとさせていただきます
ここまでご覧いただき、ありがとうございました