クオリティよりも効率よりも大切なもの
全く持って更新の遅いリユです。
最近、楽な仕事で無限に金を稼ぎたいと思っています。
さて、どうでもいい話はさておき、今日はクオリティと効率のどちらが大切なのかという考えをお気持ち表明したいと思います。
クオリティを追求したい職人
自分は現在、小さなデザイン事務所(と言っても創業20年以上の老舗です)でサラリーマンデザイナーをしています。そこではやはり、色々なクリエイターやディレクターと接する機会が多いのですが、そこで感じるクオリティのために時間を無限に消費したい人の存在です。
例えば、良いものを作りたい、と意気込むあまり毎日始発で帰って翌日も普通に出勤してきてみたいな仕事の仕方を好む人、夜中も朝も関係なく自分が思いついたアイデアを全て形にしないと気が済まない人。
様々なクオリティを優先したい人がいます。
こういう人を僕は「職人タイプ」と呼んでいますが、自分はとてもじゃないけどそういう働き方にはついていけないというのが正直なところではありますが、逆の人種というのももちろん存在します。
仕事と割り切流、醒めた効率厨
逆の人種として、クオリティを多少犠牲にすることはあっても、全てが時間通り、スケジュール通りに進行し、また、出来たものもそれなりでしかし数字も確保できるという、アイデアの段階から全てが計算されたタイプを、僕は「効率タイプ」と定義しています。
自分は将来的にはこういう効率タイプになりたいな、と思っているのですが、最近それはまた違うのかなと思い始めました。
効率タイプというのは、仕事がとにかく早く、言っていることに説得力もあり、また効率タイプというだけあって効率がいいです。
無駄なリテイクは出さないし、的確に物事を伝える能力を持っています。こういう人がディレクターに一人いるだけで、この案件に携わるクリエイターはかなり楽なのですが、その反面
「思いつきのアイデアはいらない」
と突っぱねられてしまうことも多々あります。これはもちろん、こちらが編集意図を汲み取れていない状況でドヤ顔で提案を出してしまうことにも問題はあるのですが、固まった軸をとにかくブラさない事に終始する効率タイプの仕事は、仕事というよりも作業になりやすい事に気づきました。
仕事と作業の差は?
仕事と作業という二つの言葉がありますが、自分のような若輩者、特に出版に深く携わるデザイナーや広告業界に与する若者たちは、ともかく上の年齢層やクライアントに対して、発言権が皆無に等しいことが多いです。
考えて動くことよりも、まるでPhotoshopに記録されたバッチファイルのように、繰り返しの学習で割り当てられた作業を如何にはやく、確実にこなすかが重要視され、アイデアを提案したり、自分で考えることを否定されることは多いです。
経験が浅く、右も左も全くわからない時期には、この作業というものも楽しめました。ディレクターはこう考えて、こういう事がしたいのか。ということを汲み取る事を、「大人な仕事だ」と勘違いしていた時期もありました。
しかし、言われたことをやるだけでは、そろそろ技術の頭打ちが起こっている事に気づき始めます。
作業と仕事の大きな違いは、考えて発言する権利を得ることではないでしょうか。そして、その権利を得る代償というのは発言に責任が伴う事になる。ということを自覚することから始まるのだと僕は思っています。
発言が他人に与える影響
今の会社には勤めて3年目になります。この業界は人材の流動(というよりは体なり心を壊す人多すぎ問題)が激しいです。
なので、3年もいるとある程度の発言権が認められます。しかし、その中で自分の発言=会社の意見という事になるのもまた社会人の最初に当たる壁みたいなものではないでしょうか。
そして、ここで最初の2つのタイプの話に戻ります。
会社の総意。師弟関係の激しいワンマン型のデザイン事務所等ではそれは社長の価値観が全て絶対のものとなります。
ここが未だに納得もいかないので、自分は会社に歯向かって思いきり社長の価値観を述べた後に自分の意見を述べます(それが原因でよく怒鳴られてますが・・・。)
社長はクオリティ優先の職人タイプですが、自分はクオリティより効率の方が好きです。はやく仕上げてはやく帰る。これの何がいけないのかと発言して「最近の若者は根性がない」などと揶揄されています
少し愚痴っぽくなりましたが、このようにプロジェクトが人と人のタイプの違いでぶつかった時、どれが正しいのかを納得のいく形で落としこめるようになりたいなというのが、今日の自分の意見です。
結論、結果出せばなんでもいい
元も子も身もふたもない話ですが、結局のところ、タイプなんてなんでも良くて、拘り抜いて何度もリテイクしたデザインも、20分くらいで適当にトンマナ通り組んだデザインも、最後に商品として納品するのは一つだけです。
そして、そういう裏の事情をいくら叫んだところで、ユーザーは手に取った商品でしか判断ができません。
残酷な結果主義のこの世界では、勝った奴が正義なんだろうな。
そうして、今日も僕は正しさよりも結果のために作業に没頭していくのでした。
追伸
Twitterで愚痴を垂れ流すのはTLを荒らすだけではなく、フォロワーや信用の低下にも繋がると常々考えている。かといって、裏垢で呟く事で発散できるタイプではない怒りというのももちろん存在し、現在の私が特に悩んでいるのはそういった類のものだ。
今回の記事を読み返すと本当に身もふたもないなと改めて実感する。しかし、140文字でタイムラインに気持ちを排水してしまうよりも、こうしてnoteに留めておいた方が結果的には後で読み返した時に自分の考えていたことが詳細にわかるように思える。
しかし、本当に文章というのは書いてみないと難しさがわからない。1時間あたり2000〜3000文字程度が私の平均的な執筆速度だが、ここで文章の精度をあげる練習をしていけば、きっとスピード自体は一度落ちるに違いない。
荒々しく殴り書きしているnoteから一歩進んで、誰かの気づきや、何かの本質に迫れるようになるには、絶対的な経験不足と何よりも書き続けることが大切なのだと、心に刻むべきだろう。