キャラクターは喋ってはくれない
久々に考えをまとめることも兼ねて、noteを更新しようと思います。
去年と今年は同人誌の執筆や、自費出版的に雑誌を作ってみたり、動画制作や小説のエディトリアルデザインなど、いろいろな事に触れようと思い動いてきましたが、その中で、漫画に割く時間は少しずつ減ってきたなと思っておりました。
今まで、漫画のネタは自分の体験ベースで話を作ってきていたのですが、ここ最近、ネタが思いつかないというスランプに陥っており、直近の10話くらいはなんだか前にやったことのあるネタの二番煎じ的な話しが多かったように感じています。
一度立ち止まって、今まではどうやって漫画を描いていたのか、再度考えてみました。そこで、一つ漫画を描く中で最近失った感覚があるなということに気づきました。
キャラが喋ってくれなくなった
僕が作品を描く中で、漫画のキャラたちにはそれぞれ、自分や家族、友人から著名人やキャラまで。いろいろなパーソナリティを付与してキャラを動かしていました。その中で、これまではネタが思いついたときに「これは誰のお話?」と問いかけが自分の中でありました。そして「このキャラがこういう体験をしそうだな」と思ったら、すぐさま脳内で彼らの日常を描くということが無意識でできていました。
少しずつ人格が形成されていったキャラたちは、すっかり僕が動かさなくても自分から進んで動いてくれるようになり、それを切り取って編集するというのが、僕の中での漫画を描くという作業でした。
ここ半年くらい、キャラは自分から動いてくれません。というよりも、彼ら彼女らはいったい誰で、どういう人で、何を感じて、というのがどうもリアリティを持っていない。今のキャラたちはネタを消費するための道具と化してしまっていて、それはファンにとっても気づくことなのでしょう。やはり、作品への愛情みたいなものは読者は気づくようで、目に見えてビュー数が下がっていたりしていることに気づきました。
しかし、よくよく考えてみたら、キャラが自分から動いたり喋ったりするということはなく、彼らが自由にふるまうためには、作者である僕自身が寄り添ってあげなければならないと思い、ここ最近、あえて漫画を描くということからは距離を置いております。
キャラづくりは難しい
キャラを作ることはとても楽しい作業であると同時に、苦しい行程です。一人のキャラに容姿を与えるだけでなく、人格や生い立ちを与えていく。それは生みの苦しみみたいなものに近いストレスがかかります。
このキャラは愛されるか?みたいなことを考えて、それで出来上がったキャラたちはほかのキャラたちに歓迎してもらえるのか?みたいなことを考え、いろいろなキャラを生み出してきました。
しかし、愛されるかどうかは、読者次第。僕が描いている漫画『なごばし』に登場する佐藤龍霞というキャラは、自分のネガティブな部分をふんだんに盛り込んだキャラであり、僕自身の代弁者として振舞ってもらっていますが、いつしか読者たちから愛されたことで、自分とは切り離して、龍霞という一人のキャラとして独り立ちさせました。
キャラを生み出すのは作者ですが、キャラを育てるのは物語と読者であると、最近特に感じています。読者からのレスポンスが何よりも貴重な財産となるのは、そうした理由だと僕は考えています。
物語に僕はいない
今までは、自分の作品には自分の考え方や、価値観を反映してきたのですが、何度かnoteでも書いてきたように、読者や世間、そして自分が作った世界そのものによって、僕の価値観は少しずつ殺されて行って、今となってはキャラの日常を切り取って流すだけのテレビのような役割となっています。
その辺から、キャラは喋ってくれなくなり、動いてくれなくなり、目に見えて読者からのレスポンスは失われて行きました。
単純にバズらせるだけならその間にも何度かはあったのですが、それらは傾向と対策的なその日、なんとなくバズりそうな話題をハイスピードで回しただけで、結局は新たな読者の獲得にはつながっていませんでした。
僕は決して数字に強いわけではありませんが、最近は自分の感覚や経験を排して、できる限りデータや数字をもとに媚びていた事に気づき、しかし、一度気になってしまった数字を無視はできず、データと世界観に振り回されている事に辟易しています。
少しずつ、作品は僕だけのものではなくなり、また、僕自身も作品を手放していることに、何とも言えないやるせなさを感じている現状です。
また作品の中に入りたい
最近は、仕事も忙しく、人間関係でもトラブルがあったりで、正直なにが楽しくて生きているのかわからない日々で、時間ができたときは柄にもなく今まで敬遠していた異世界転生もののアニメを一気見したり、一日中youtubeをダラダラ見ていたりして、有意義ではない自堕落な生活をしています。
やはり人気作品はキャラが魅力的だなぁ~などと思いながらも、自分はもう、世界を作れないのではないかと思いながら、何もせず沈んでいくだけです。
いつか、また作品の中に入り込んで描く日が来ることは来るのでしょうか。
追伸
追伸を書くにあたって、今までのnoteに少し目を通したが、面白いほど半年前と言っていることが変わらない。時間が解決してくれる類の問題だと思っていたが、根本的に人間が変わるのは難しいことを痛感する。
水増しという表現を多用しているが、これは水増しではなく焼き増しなのだと思った。日本人は現状維持を好むが、自分もその民族の一人であると思った。
最も、民族や種族など、ステレオタイプに当てはめて物事を計ろうとするのは頭の悪いことを自慢して回っているようなものだが、自分もついに落ちるところまで落ちたという事か。最近は特にステレオタイプで何かを決めつけて、自分の思い込みを否定されると拒否反応が出ることも少なくない。歳のせいか、もしくはストレスと閉鎖的環境がそうさせるのか…。
話しが逸れたが、半年前から言っていることが何一つ変わっていないどころか、状況はむしろ悪化しているぞということを、半年前に激務で死にかかっていた自分に言いに行きたい。
いま、社会はある種凄まじいスピードで動いている反面、時間が止まっているかのように毎日を繰り返すだけになっている部分も持ち合わせているように思う。夏を超えるまでは耐え忍んで現状維持に尽力しようと思うが、秋になっても考えが変わっていないようであれば末期だ。
今の気持ちはまるで、8月31日の昼過ぎに起きてしまったような、そんな気持ち。いつまでも人生の夏休み気分ではいられない。