世界認識を2度裏返し、本分と領分を知る(Y Y)
4月の定期異動で部署が変わり、新たな職場で新規事業開発促進の仕事に携わることになった。
これまで、仲間と共にゼロから立ち上げ、リーダーとして全てを賭けて取り組んできたプロジェクトからは離れ、また改めて新しい職場で、会社や組織、そして自分自身を見つめなおす機会を得ることになった。これまで没頭してきたプロジェクトから離れることに寂しさはあるけれども、自分自身の役目は果たしたような一定のやり切った感もあり、心残りはない。
当然ながら新たな職場にも、やるべき事や本質的な課題はいくらでも見つけることができて、社会のため、あるいは直接影響を及ぼしうる、部署内の500人の社員のため、重要で意義のある取組みを自ら仕掛けていくこともできそうだ。
でも、約3週間仕事をしてみて、まだどこか、本当の腹落ち感がないというか、自分が今本当にやるべきことが何かということに確信が持てていないような感覚があり、一抹の違和感が拭えずもやもやしていた。
一度方向性を決め、走り始めてしまってからでは、この微妙な違和感に対して丁寧に向き合うことが少し難しくなってしまうかもしれない。そういう怖さもあり、いったんきちんと時間を取って、内省と瞑想によって自分の内側を探ってみることにした。
そこで得られた気づきが自分にとっては大切なものだったので、ここに残しておきたいと思う。
◇ ◇ ◇
最初に、違和感の正体を思考と感情、そして体感覚でとらえてみた。
まず見えてきたのは、本当のところ自分が心からやりたい、やるべきと感じていることがよく分からないという焦り。そしてその奥には、結局最後は全て無意味なんじゃないか?という虚しさがあった。
自分自身はいずれ必ず死ぬし、仮に自分が何かを遺せたとしても、人類はいつか滅ぶ。仮に例えば人工知能によって太陽系外に半永続的な文明を引き継げたとしても、最後は何らかの形で宇宙の終わりは訪れる。笑われるかもしれないが、ついそこまで考えて、結局全ては無意味であるように感じてしまう。
そしてもう一つ。全て無意味と感じる一方で、やっぱりこのままただ消えていくのは嫌だ、大きなことを成し遂げ、認められ、生きた痕跡をこの世界に遺したいという衝動も、消しがたくくすぶっていた。
頭では、これはエゴであり、囚われるべきではない欲求だと自分に言い聞かせ、抑圧してきた思い。
意識をコンピュータでシミュレートすることを目指した個人的な研究を通じて、「最も確かに思える自分自身の意識や精神という存在すら、一種の錯覚である」という確信を得ていたこともあり、なおいっそう、自分(の遺伝子)を遺したいという本能からくるエゴへの執着は手放さなければと自分に言い聞かせてきた。
それでもずっと、重低音のように消えなかったこの思い。
それが意味のないものだと、頭では理解したつもりで、実際には体感覚として腹落ちしていなかった。
どうしてもここの整合を取る必要があると思った。
ある意味では全てに意味がないのだから、いっそ、この大きなことを成したい、認められたい、生きた痕跡を遺したいという衝動を解き放ちし、それに従って生きた方がいいのではないか?
さすがに、刹那的な快楽を求めるエゴに動かされるのは表層的で短絡的な行為だし、深いレベルではかえって心を傷つけるから避けるべき生き方だと思うけれども、このように自分が心から深く求めていることならば、ある意味ではエゴを解放して、それに従って生きることは、自分にとっても社会にとっても有意義なのではないか?
でもそうしたところで、自分も、自分の遺伝子(gene)も、自分の考え(meme)も、文明の滅亡、あるいは地球、宇宙の死がくればいつか消え、全て無かったことになってしまう。結局、この虚しさからは逃げられない。
このあたりが思考の限界で、探っては手放し、手放してはまた探る、ということをしばらく繰り返した。
…
そして、自分と世界の関係が(感覚として)「もう一度」裏返った。
…
私たちの日常の感覚としては、まずそこに世界があり、その中に自分がいる。自分は、世界からある種独立した存在(主体)としてここにいて、対象としての世界(客体)を見ている。これが通常の私たちの感覚だろう。
次にもう一段よく考えると、実は私たちが経験することは全て、直接的には私たちの脳内で起きている事であり、この世界全体ですら、私たちの脳内に構築された世界の「モデル」でしかないということがわかる。これが一度目の「裏返し」で、ここまでは腹落ちしやすいと思う。
しかし、その「内部に世界のモデルを持っている私」自身が、正確に捉えようとすると結局はこの世界の一部であり、自然のプロセスの結果として生まれてくる現象なのだということが見えてくる。言葉にするとややこしい感じがしてしまうが、要約すればシンプルな話で、近代以降の機械論的な世界観によって、「私にとっての世界のすべては私の脳内で起きていること」と考えるようになったけれども、さらによくよく考えてみると世界と自分とは完全に分離できるものではない(例えば、この世界を見ている私は脳の中のどこにいるのか?と問うた時に、従来の見方の粗さが浮かび上がってくる)ため、「やっぱり世界の中に私がいる」という見方の方がより正確だよね、ということになる。これが二度目の「裏返し」で、すでに頭では理解していたものの本当の意味で体感できてはいない概念でもあった。
今回、この二度目の裏返しが、初めて実感において起こった。
…
自分自身は世界の一部だということが、体感覚として実感される。
自意識は幻想であり、感覚や欲求も自然のプロセスに過ぎないという、理屈の上での理解にはじめて感覚が追いついた。
そこで何を感じたか。
この世界そのものは、それ自体、満ち足りていて、不安がない。いつか終わってしまうかもしれないという虚しさも、そこには存在しなかった。
こうやって言葉で書くとどうしても、よく聞くようなフレーズになってしまう。ただ、自分の感覚として感じるということは、全く違う体験だった。
そしてもう一つ感覚として理解できたこと。
矛盾するようだけれども、満ち足りて不安もないこの世界でありながら、その部分として生きる私たちには苦しさや虚しさがあり、格差も不条理も怒りも存在する。これは、マクロ(世界全体からの視点)とミクロ(私たちの普段の視点)の違いなのかもしれない。
エゴを持ち、得意なことと苦手なことがあり、社会的役割を持って生きる自分自身の本分が、ここにあると思った。
そして今まで何に悩んでいたか、苦しんでいたか、どう考えればよいかもわかった。
それは、本分と領分を知るということ。
本分とは、自分自身の強みや経験、縁、文脈、そしてエゴも含めて最大限活かし、この世界と未来から求められる役割を果たしていくということ。ミクロな文脈では、エゴも資質としてうまく発揮していけばいい。
また領分とは、ミクロな文脈(私たちがその人生において何を成すか)で考える際に、マクロな文脈(宇宙全体のはるか遠くの未来がどうなるか)の心配をしないということ。そもそも世界そのものは満ち足りていて、何の虚しさも抱えていない。それなのにミクロな視点のエゴから、人生のスパンを大きく超えた、ほぼ屁理屈のような遠い未来を憂いて虚しさを感じるのは、領分をわきまえない、おこがましい考えだと言える。
領分は、自分の手が届く範囲の、家族、会社組織、顧客、社会。そして、直接あるいは間接的に影響または残響が届く50年、100年、あるいは1000年。それ以上の心配をすることはやめよう。
そしてこの領分の中で、思い切り、本分を全うしよう。
改めて、自らの本分が何なのか、もう一度考えてみようと思う。