就職について思い出すこと(hm)
リクルートの時期になると思い出すことがある。それは15年以上も前、就職面接の前日の話だ。
僕は履歴書の家族構成欄で手が止まっていた。と言っても、何も書きにくいことがあったわけではない。僕の家族は父と母と妹で、今でも仲が良い。でも、もう一人うちには家族がいた。ペットのはなちゃんである。
はなちゃんは僕が中学1年の時に保健所からやってきたメスの雑種犬で、それから19年もの間、一緒に過ごした。どこの家でもあるであろう様々なトラブルも共に乗り越え、というかはなちゃんのおかげで、他の4人だけで選ぶよりずっと良い選択肢を取りながらトラブルを乗り越えてきたのだと思う。僕らにとってはなちゃんは欠かすことのできない一人だったし、家族同然、というより、家族そのものだった。
さて、家族構成欄の話である。僕は家族構成欄を見て、なんというか、試されている気がした。家族だと言っておきながら、そこに書かないことは、はなちゃんを裏切ることになるのではないか。
迷っている理由はもう一つあった。自分が就職をしようとする会社は1年前に不祥事を起こし、まさに変革期で、就職説明会でリクルーターは熱っぽく「我々は本気で変わろうとしている。これからは自分の頭で考えられる人が欲しいんだ」と語った。そんな会社なら、むしろ、家族欄にはなちゃんの名前を書く人材こそ必要なのではないか?
「履歴書の家族欄にはなちゃんの名前を書こうと思うんだよね」
そう言うと母は
「はなちゃんも喜ぶね」と言った(誰も止めなかった)。僕は、はなちゃんの名前や性別、職業欄には正々堂々と“犬”と書いた。
果たして、人手不足で誰でも入れるのではないかと言われた就職面接で、僕はめちゃめちゃ圧迫面接を受けた。
上司と思われる面接官は、一言も口を聞かず履歴書をあからさまに見ながら僕を睨みつけ、僕は負けじと睨み返した。その部下と思われるもう一人の面接官は、この変な緊張状態を何とか取り繕いながら面接を進めた。面接が終わろうとした時だった。上司面接官が突然口を開いた。「僕が嫌だなぁと思ったのは、この家族構成欄です」薄々そのことだろうと気が付いてはいたが、口に出された時ショックだったし、それ以上に僕は腹が立っていた。わかってくれないと言うことは、この会社は今までと同じだと思ったからだ。僕らは短く口論をしたのち、それでも内定通知書をもらう事となった。場を改めて事業部長から「おめでとう」と通知書をもらいながら、僕は胃の奥にゴロゴロと石ころが詰まっているような重たい違和感を感じていた。
そのモヤモヤを抱えたまま、喫茶店に予備校時代の友人の井山を呼び出した。
「もし自分が正しいなら、この会社に入るわけにはいかないから辞退をしようと思う。逆にもし自分が間違っているなら、非礼を謝りに行かないといけない」井山とはそこで2時間くらい議論をした。結果、言い負けた。もう15年以上も前のことなので、どういう理屈になったのかハッキリとは覚えていないが、スッキリ納得はしていなかったはずだ。僕はその足でそのまま面接会場に戻った。
面接は全て終了したようで、会場は片付けが始まっていた。受付の人に、もう一度面接官に会いたいと言い、入り口で待っていると、年配の男性が近づいてきた。「彼はもう仕事に出てしまったので、上司の私が代わりに話を聞きます」一連の経緯と自分が間違っていた旨を伝え、頭を下げると「まぁ、*****みたいに仕事ができればあとはどうでもいいって言う人もいるけど、仕事ってそういうものじゃないからね」と言った。その一言だけは何となく今でも覚えている。
それが僕の就職活動で起きたことだ。勤務日初日、真っ赤なダウンを着て会社に行くと履歴書に犬を書いたやばいやつがいるという噂は会社中に広まっていた。そうやってあれから15年程、僕は同じ業界にいる。
そして、今、僕は履歴書にはなちゃんの名前が書けないような仕事が増えて、苦しい。
以前のように職場に真っ赤なダウンを着ていくことも無くなったし、仕事への対処も格段に上手になった。でも最近、胸がザワザワする。
周りを見回してみる。誰もはなちゃんの名前を書かない。それが彼らの実質なのか、それとも心の中は違うのかわからない(でも内心、それが彼らの実質なんじゃないのかと思いそうになっている)。僕も当たり前のような顔をしてそこから名前を消す。そしてこう思う。「大丈夫、これは単なる形式だから。心の中でしっかり思っていれば問題ない」それなのに、この違和感は何なのだろう。一体15年前、僕が守ろうとした「形式」とは何だったのだろうか。
そこまで考えて、ふと気がついた。取るに足らないと思っていた「形式」とは世界に対する表明であり行動なのではないだろうか。だからこそ、僕はあんなに悩み、家族を守るために戦ったのではないか?大事だと思っていた実質は、形式が伴わなければ何の意味もない、心の中でどんなに思おうとそれを表明し行動に起こさなければ、何も守れないものなのではないだろうか。それが犬であろうと人間であろうと、例えば信念のようなものであろうと。
であるならば、僕は今、自分に問わなければならない。僕は僕の仕事で大切なものが守れているのか?そうでないなら、少なくとも、今からは守らないといけない。15年前のように。
そんなことを考えていたら、猛烈に、もう一度、はなちゃんと会いたくなった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?