すべての源は内発的動機に通ず。でも一般人は内発的動機に辿りつけるか?(MASA)
最近内発的動機の重要性を耳にする機会が増えてきた。私の所属する企業では昨年、社内起業家育成支援プログラムがスタートしたのだが、その第一段階の選考過程でも「内発的動機が評価基準の6割です」というような形で、その重要性がアピールされていた。この内発的動機というワードが、かなり流行っているせいもあり、表面だけしか捉えていない“内発的動機”が横行し始めているように感じる。つまり、「個人のやりたいが表れていればそれは内発的動機によるものだ」くらいの緩い使われ方が増えている気がするが、私のイメージする内発的動機はもっと使命感のある、凄みのあるものだ。最近どんな仕事をやっていても、結局この内発的動機がないと越えられない、そんな壁にぶち当たることが増えてきた。
例えば私の職務記述書には、DX担当という表記があるのだが、DXという一見個の気持ちが重視されなそうな世界ですら、突き進めるとこの内発的動機の壁にぶち当たる。デジタルトランスフォーメーションとデジタライゼーションの違いの判らない大人がまだ自分の所属する企業内でも大多数であるがそれはさておき、DXの一般的な理解は、①KPIツリーを描きゴールまでの道筋を要素分解&数値化、②まずはその数値の向上を目指し、③ゴールへ効率を上げるために要素を見直していく、ということだと思うが、この範囲のDXを実施するにあたっては、Whatが与えられ、Howを考える勝負、つまり「最適化」の勝負なので、内発的動機が必要になることはまずない。
ところがこれだけDXが流行っている時代では当然競合他社も同じようなことをやってくるし、何よりも需要<<供給の時代であるために、Whatがしょぼければどんな手を打っても勝てない、そういう状態に行き着く。そうなると、「あれ?なんでこのWhatをやってるんだっけ?この事業のWhyはなんだっけ?」というポイントに立ち戻る必要が出てくる。事業の目的を疑うことが出来ると、新たな事業の在り方へとアプローチが可能になるため、ビジネスモデルチェンジを考えることが必要になる。
ここまでは主語が企業で片付くのだが、この需要<<供給の時代では小手先でビジネスモデルを変えても勝てないことが多い。したがって事業の大目的を疑う必要も出てくる。
このようにビジネスモデルチェンジや社会変革までDXでアプローチしていく手法を、DX3.0, DX4.0と呼んでいる企業もあるが、結局最後の最後、特に企業の存在意義に否定力をかけるためには、もはや企業目線の主語では実施が出来ないため、個の目線が必要になってくるが、内発的動機を持たない個にはそれを成し得ない。DXは短期的(特に最適化勝負のフェーズ)では個の概念を引き抜き、人間を退化させる取り組みに思えるが、長期的には個の概念をうまく利用できないと戦えない世界を作る取り組みだというのが私見である。
ちょっと話は変わるが、デザイン思考などをはじめとするイノベーションを起こすための思考法なども同じような構造をはらんでいると思っている。デザイン思考というものが出てくる前は多くの企業はシーズ思考(シーズありきで出来ることを考える)、あるいはニーズ思考(ニーズありきで実現方法を考える)が商品開発・製品開発を支配してきたのではないかと思うが、これらはHow→WhatあるいはWhat→Howの勝負であり、そこのWhyがなかった。徹底的な顧客観察により、顧客すら気づけていない潜在ニーズを見つけ、それを解決するのがデザイン思考だが、見方を変えると、既存の解決策(What)に否定力をかけることでWhyを見出すということでもあると思う。デザイン思考も需要<<供給の世界では限界があり、近年はアート思考の重要性なども取り上げられることが増えていると思うが、これはまさに個にフォーカスをあてることで、DXの事例と同じ構造だと言えると思う。時代の進行とともに結局どのような分野でも似たような壁に当たり、その壁を乗り越えるために内発的動機がクローズアップされている。これが昨今内発的動機をよく耳にするようになった理由だと考える。
ではどうすれば内発的動機に辿りつけるのか。本人あるいは身近な人物にまつわる強烈な原体験を持つ人が起業し、共感を集めるケースが増えている。そのためか、クロスフィールズのように原体験を作ることを目的にするビジネスすら出てきている。強烈な原体験がない一般人には、内発的動機にはたどり着けないのだろうか。振り返ってみると、“WaLaの哲学”は内発的動機に辿りつくことにタックルするプログラムだと、理解する。表面的な“内発的動機”を見つけるための講座は企業のリーダーシップ研修などでも取り入れられ始めているが、例えば、120枚の価値観カードから一枚ずつ捨てて行って、最後に残った5枚のカードにヒントがある、というようなものであったり(しかも研修内ではその選び取った価値観カードを基に最終プレゼンを組み立てさせられ、「この提案を実施できるのは私だけです。なぜならば私は○○という価値観を大事にするからです」とすら言わされそうになった。)、“WaLaの哲学”を受講するまでは正直しっくりくるものに出会わなかった。講座の中では、今の自分のスナップショット、過去からの自分のフローをフレームワークを使って理解し、瞑想の練習なども行ったが、それによってどうやって自分の内発的動機を発見できるのか、当時はうまく言語化できなかった。講座を受ける中で、内発的動機、Whoを見つけるために最初にやろうとしたのは、現在および過去の自分の特徴的な経験を演繹的に結び付けて解を出そうとする方法であった。これは違うだろうと思いながら、他の方法がわからなかった。今私の考える結論は、内省した自己のパーツを結びつけるのはアブダクションであり、そのアブダクションを行いやすくする行為が瞑想なのではないか、というものだ。アブダクションはアイディア創出のためによく用いられる発想法で、分野の異なる事例を、抽象度を自在に動かしながら組み合わせてくっつける発想法である。(アブダクションを理解するための参考書:アナロジー思考)講座終了後2年経ってようやく少し言語化できる気がする。
人が、必要以上に食べたいと思う気持ちをハックする。
食産業が、人に必要以上に食べさせる構造をハックする。
これが私の辿りついた内発的動機。でもこれを基にした事業提案が通らず自分の時は止まってしまった。
止まってしまったのは、まだ掘り切れてなかったのか、実は帰納的に作っていたからなのか。
まだ答えは出ていないが、その作り方を少し言語化できたからこそ、もう一度考えるきっかけにしたい。
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