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阪神淡路大震災の記憶

1995年1月17日(火)5時46分

神戸市須磨区と長田区の境目にあるマンション。
4階に住んでいた。
家族は、(元)夫と私。お腹に中には、長男を授かっていた。

前日は安産を祈願して『腹帯』を巻いてもらっていた。
夜は『月がやけに大きいな』と思った。

鉄筋コンクリートのマンションが、大きく揺れた。
箱に入れられ、振り回されているようだった。
隣に寝ていた彼が、私をかばって覆いかぶさってくれた。
天井のライトが降ってきた。障子がすべて外れて、重なってきた。
死ぬんだと思った。

どれだけ揺れていたのか、理解できなかった。揺れが収まると、すぐに電話を探した。当然、電話は切れていた。

窓を見ると、煙と炎が見えた。窓を開けて外を見ると、横に立っていた木造一軒家が倒壊していた。同時にガスの匂いがしてきた。
すぐに、逃げる準備を始めた。

【暗闇で探したもの】
コタツの布団・マフラー・コート・ニットパンツ・靴下・スニーカー・ラジオ・財布等々

最低限の用意をすると、ドアを開けた。隣や下の階の人たちも、外に出てきていた。
隣の家が倒壊したため、1階の出口がふさがっていた

【倒壊した家の屋根】
誰かが持ってきた椅子を踏み台にして、倒壊した家の屋根に移動した。
瓦の上をたどり、端まで行った。
・・・どうやって地面に下りればよいのか。
飛び降りたら、お腹の子どもは死んでしまう。
その時、外付けの階段に屋根がつながっていることに気づいた。

その後、小学校に避難した。余震が怖かったため、運動場でコタツの布団にくるまっていた。

明るくなるにつれ、色々な事がわかってきた。
震源は淡路島、多くの家が倒壊している、長田区が燃えている、とても大きな地震である....

【見たもの】
完全に崩れた家・傾いた家・下層階がへしゃげたマンション
折れた電柱・割れた地面・崩れた駅・波打っている線路
ケガをした人・着の身着のままで逃げてきた人・布団ごと運ばれてきた人
炎・煙・・・空を走る光線.....
ヘリコプター・消防車・公衆電話の列・バケツリレーの消火活動

光についてのデータは少ない・自分だけが見えた?

その後、私達は夫の実家に避難することになった。
幸い、親兄弟・親戚も無事だった。
マンションには3か月ほど帰ることはできなかったが、大した問題ではない。

あの日、6000名以上の犠牲者がでた。
対処できない力で、日常生活を突然壊される状況を目の当たりにした。

今でも「なぜ神戸に地震がきたのか」と、ぶつける場所がない思いがある。

1月17日は、神戸市の東遊園地では震災の追悼が行われている。今年も参加し、震災の犠牲になった方々を追悼した。

明日からは、ルミナリエが始まる。

当たり前の日常は、突然、途切れる時がある。
毎日を大切にしたい。


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