ラ・ロシュジャクラン侯爵夫人回想録 1792年8月10日の箇所
(ロシュジャクラン侯爵夫人:当時19歳でレスキュール侯爵夫人。(新婚)亡命しようか迷ったがパリに留まっている。
プロヴァンス伯に仕える父・ドニサン侯爵と、シヴラック侯爵(ルイ15世時代の外交官)の娘でランバル公妃の部下の母を持つ。ヴェルサイユ生まれヴェルサイユ育ち。夫のレスキュール侯爵と共にヴァンデの反乱に同行し、生き残って回想録を書く。2人目の夫のラ・ロシュジャクラン侯爵はヴァンデの反乱指導者の一人、アンリ・デ・ラ・ロシュジャクランの弟ルイ)
第二章 1792年8月10日。パリからの脱出。
真夜中頃になると、人々が通りを歩き、ドアを小さくノックする音が聞こえ始めた。窓の外を見ると、セクションの大隊が静かに集まってきていた。彼らは武装しているようだ。
午前2時から3時の間、近くで警鐘がなり始めた。レスキュールは不安を抑えられず、マリニーと共に、人々がチュイルリー宮殿に向かっていないかを確認しに行った。数日前にパリに到着したばかりの父とグレミョン氏は、まだ宮殿に入る通行証(*)を持っておらず、ホテルに留まることを余儀なくされた。
しかし、通行証は使用することができなかった。レスキュールとマリニーは知っている出入口全てから宮殿に入ろうと試みたが、州兵の前哨隊が各門を守備しており、王の擁護者が王のもとに駆け付けるのを防いでいた。レスキュールは宮殿の周辺を歩きまわり、スロー(**)が虐殺されるのを見た。その後、ホテルに戻ってきた彼は市民の服装に着替え、大砲が威嚇の砲撃の音を響かせ始める頃には、再び出発していた。レスキュールは宮殿に入ることが出来なかった自分を許すことができず、絶望に捕らえられていた。
(*王宮に出入りする知人が2人以上いれば発行してもらえる)(どこかにメモした・探して)
(**Francois-Louis Suleau スロー事件:1789年8月10日、スローはチュイルリー宮殿への攻撃の1時間前に暗殺された。1792年7月30日、シャンゼリゼ通りの庭園で、マルセイユの代表団がサントーマス大隊の王党派メンバーと対立した。マルセイユの愛国者が重傷を負い、王党派が殺害された。復讐を望む愛国者は、8月9日から10日の夜に、ジャーナリストやレグノー・ド・サン・ジャン・ダンジェリーを含むこれらの王党派数人を特定したリストを作成し回覧した。スローは彼らと間違えられ殺害された。)
最初に、私たちは叫び声を聞いた。
「助けてくれ!スイス兵が来た!道に迷ってしまった!」
このセクションの大隊はその声を辿り、フォーブールの深部(?どっかの監獄の武器庫かなんか。和訳なんだっけ)からやってきた真新しい槍で武装した3000人の兵士が合流した。
私たちはしばらくの間、王が優勢であると信じていたが、すぐに「サンキュロット万歳」と叫ぶ声が響いた。私たちは生と死の間に落とされた。
マリニーはレスキュールと引き離され、宮殿を攻撃する群衆の中に引きずり込まれ取り囲まれた。攻撃が開始されたとき、一人の女性がマリニーの側で負傷した。マリニーは彼女を腕に抱いて運び出し、同時に守るべき王と対峙するという恐ろしい不幸から逃れることができた。だが、他の者がこの困難な状況から逃げ延びることはほとんど不可能だった。
モンモランは大きな危険から免れた後、私たちのいたホテル(*)に辿り着いた。その後を、大虐殺の熱に酔いしれた4人の州兵が追っていた。モンモランは食糧品店に入り、グラス1杯のブランデーを注文した。4人の州兵も過熱した様子で店になだれ込んだ。
店主はモンモランが宮殿から逃れてきたのではないかと察し、機転をきかせてこう言った。
「ああ従兄よ、田舎からやってきて、まさか君主制の終わりを見ることになるとは思わなかっただろう。さあ、この勇敢な仲間たちの健康を祝しても呑もうじゃないか!」
この誠実な店主は、彼をモンモランと知らずに救ったのだった。しかし、このとき救われた命は非常に短いものであった。モンモランは9月2日に虐殺された。
他にも数人が、私たちのもとに避難場所を求めてやってきた。その日私たちは残酷なほど多くの苦しみを味わった。スイス兵は近くで虐殺された。
私たちが滞在していたホテルは、扉の上に“HÔTEL DE DIESBACH”と書かれて、多くの人に知られていた。
レスキュールは近隣の人たちに短剣の騎士(*)ではないかと噂されていた。人々は王を秘かに擁護する者をそう呼んでいた。幸いにも、グレミョン氏(**)の到着を人々は知らずにいた。そのうえ、家に必要な備品の全てを近所の店から購入したので、私たちは近所の人たちから好意的に受け入れられていた。
夜が来るのを待ちきれなかった私たちは、夕方になると各々変装をしてフォーブル・サンジェルマン大学通りにある元女中の家に、別々に避難することにした。
まず父と母が一緒に部屋を出て、何事もなく到着した。私はレスキュールと共に出発した。私は彼に銃を置いていくように頼んだ。銃を所持していることにより、レスキュールが短剣の騎士と認識されるのではないかと心配だった。彼は私の必死な訴えを聞き入れ、同意してくれた。そのとき、私は妊娠7か月だった。
マリニー通りを進み、そこからシャンゼリゼ通りに入った。そこは、闇と沈黙に支配されていた。チュイルリー宮殿の方角からの砲撃の音が聞こえるだけで、通りは閑散としていた。
突然、私たちに助けを求めて近づいてくる女性の声が聞こえた。彼女は、「お前を殺す」と脅され男に追われていた。彼女はレスキュールのもとに大慌てで駆け寄り、彼の腕をつかんで「ムッシュー、助けて!」と言った。
レスキュールは丸腰であったが、私たちに銃を向ける男に近づこうとして、私と今にも倒れそうな女性の2人に引き留められた。レスキュールは私たちを振りほどこうとした。
「俺は今日、たくさんの貴族を殺した。そしてこの数はもっと増えるだろう。」
男は熱狂した様子で言った。
レスキュールは、男に「この女性に何を望んでいるのか」尋ねた。男は答える。
「俺はスイス兵を殺すため、女にチュイルリーへの道を聞いたんだ。最初は女に危害を加えるつもりはなかった。だが、女は混乱して何も答えずに逃げ出した。だから、俺は女を追いかけた。」
レスキュールは見事な冷静さで彼に言った。
「あなたは正しい。私も共に行こう。」
それから、男はレスキュールと話し始めた。しかし、男は私たちが貴族ではないかと疑っていて、時々わたしたちに銃を向け、「少なくともこの女は殺したい」と言った。
レスキュールは男を取り押さえたかったがかなわなかった。私と女性がずっとレスキュールの腕にしがみついていたからだ。
最終的に、レスキュールは男を説得し、男と共にチュイルリーに行くことに決まった。男は私たちに同行したがったが、レスキュールは男にこう言った。
「私の妻はこのとおり妊娠中で、彼女はとても怯えている。私は妻を妹のもとに連れて行き、それからあなたと合流しよう」
男は同意し、私たちのもとを去った。
私はどうしてもシャンゼリゼ通りを隔てる大通りを歩きたかった。
私はこの日目にした光景を、私は決して忘れることができないだろう。
シャンゼリゼ通りには、昼間に虐殺された1000人以上の死体が右にも左にも横たわっていた。そこは最も深い闇が君臨しているようだった。
チュイルリー宮殿の上空に炎が立ち上るのが見え、銃撃と民衆の叫び声が聞こえた。私たちの後方では関所の建物も燃えていた。
右側の路地に入り、交差する道路を通って、ルイ16世橋に行こうとした。しかしその時、人々の叫び声や罵声が聞こえ、そこを通る勇気を失った。
恐怖に襲われた私は、左側のフォーブールサントノレ庭園沿いの方向にレスキュールを引きずっていった。ルイ15世広場に到着し、そこを越えようとしたとき、チュイルリー宮殿から旋回橋を渡って来た部隊がマスケット銃を発射しているのが見えた。銃撃を脇目に見ながらロワイヤル通り、サントノレ通りを通過した。槍で武装した群衆たちは遠吠えのような猛烈な声をあげ、惨劇に酔っていた。私は頭が真っ白になり、わけもわからず「サンキュロット万歳!」と叫んでいた。
「窓を壊せ!」という声が幾度となく聞こえる。
レスキュールは私を落ち着かせることも、泣き止ませることもできなかった。
ついに私たちは、暗く寂しいルーブル美術館に到着し、セーヌ河にかかるポンヌフ橋を通り、そこから岸壁に行った。セーヌ川のこちら側では、暗い沈黙が辺りを支配していた。対岸では、チュイルリー宮殿の炎が全ての物に暗い光を投げかけ、大砲の轟音、一斉射撃、群衆の叫び声が聞こえた。まったく対照的な光景だった。河が2つの異なる地域を分断しているかのようだった。
私は疲れ果て、母がいる隠れ家まで行くことができず、フォーブール・サンジェルマンの小さな通りにある、レスキュールが世話をしている老女の家に立ち寄った。そこには、私の勇敢な召使が2人いた。彼らは略奪や虐殺から逃れ、私の宝飾品や貴重な品々を命がけで運び出し、隠しに来たのだった。彼らから、母が無事避難できたことを聞いた。私は母を安心させるために、私の無事を母に伝えるよう召使に指示を出したが、それは叶わなかった。母は苦悩の中で一夜を過ごし、父は居ても立っても居られず、私を探して一晩中町を走りっ周った。両親に私の無事が伝わったのは翌朝になってからだった。
ホテル・ディスバッハに滞在していた2,3人の女性から、街では一晩中スイス兵が虐殺されていたことを聞いた。私のメイドであるアガテは、隠れていたスイス兵を変装させようと考えていた。しかしその矢先に、スイス兵は彼女の側で殺された。
翌日、さらに多くの大虐殺があった。レスキュールは私の懇願にもかかわらず、友人たちの安否を確認しに行きたがっていた。彼は2の男が人を殺しているところを間近で見た。私たちは老婆の家に8日間滞在した。その間、私と母は民衆の装いでお互い会いに行っていた。ある日、母の元から帰るとき、レスキュールが私に腕を差し出してくれ、私たちはそのまま守衛所の前を通り過ぎた。入口に座っている義勇兵が、仲間にこう言った。「短剣の騎士が通らないかよく見ておけ。奴らは変装している。」
私たちは自分たちの置かれた状況をよく理解していた。私は平然を装っていたが、老婆の家に戻ると意識を失った。
Rouleセクションの管理者はとても優秀だと言われていた。しかし、私たちはホテル・ディスバッハに戻る方法がわからず、大学が提供しているホテルに泊まりに行った。
多くの不幸な出来事に気圧されていた母は、ランバル公妃が大衆の抗議によってラフォース(和訳?)監獄に移されたことを知り、高熱を出し倒れた。母の体調が少し回復した頃、私たちはパリを離れようと考えた。
毎日何度も、誰かが逮捕されるのを見た。私たちはパリを出るのに必要な通行証を求めた、逮捕される順番を待つような恐怖の中を過ごした。そんな中、神は私たちに救い主を送ってくださったのだ。
トマソン氏はレスキュールの教育係りを務めていた男で、私たちを救う手助けを献身的にしてくれた。彼は機知と才能に満ちた偉大なくず鉄商であり、とても大胆な人物だった。
つづく
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