劇場版『グリッドマンユニバース』に込められたメッセージとは何なのか 解説・考察(ネタバレあり)

SSSS.GRIDMAN、SSSS.DYNAZENON、そしてグリッドマンユニバースに込められたメッセージとは何なのか、私なりに考え、それを書き殴ります。

※世界観やヒーロー、ロボットの設定を考察、解説する内容ではありません
※全て私個人の見解です

『グリッドマンユニバース』に込められたメッセージとは何なのか、それを探るために

グリッドマンユニバースに込められたメッセージとは何なのか、それを理解するには、SSSS.GRIDMANとは何だったのか、そこから深く理解しておく必要があると思います。私の認識が100%正解というわけではありません、ただこの記事を読み進めるのに必要なので、一緒におさらい出来たらと思います。

SSSS.GRIDMANの主人公は裕太でもグリッドマンでもなく「新条アカネ」

SSSS.GRIDMANは「新条アカネの世界」で物語が展開していきます。そして、キーマンである「裕太」「六花」「内海」「(アカネ世界の)アカネ」は、「(現実世界の)アカネ」の心、精神そのもの、と捉えています。アカネはヒロインであって主人公は裕太じゃんという意見があるかもしれませんが、そうではないのです。なぜなら、裕太もアカネの一部だからです。具体的に挙げます

「裕太」=「(現実世界の)アカネ」の持つ「勇気」の象徴
「六花」=「(現実世界の)アカネ」の持つ「自己愛」の象徴
「内海」=「(現実世界の)アカネ」の持つ「逃避」の象徴
「(アカネ世界の)アカネ」=「(現実世界の)アカネ」の持つ「自己否定」の象徴

これを見て、そんなのわかってるという方はこの項目は読み飛ばしていただいて大丈夫です。よくわからないという方は是非このまま読んでいただきたいです。

私が上記の解釈をしたのにはもちろん根拠があります。まず、「(アカネ世界の)アカネ」から。「(アカネ世界の)アカネ」は容姿端麗、クラスの人気者、そういうまさに「理想」を詰め込んだような人物です。ただ、「(現実世界の)アカネ」はどうでしょう。本編での言動や、OP「UNION」のMV https://www.youtube.com/watch?v=b4CIYS1Bme4 の様子からわかる通り、「(現実世界の)アカネ」は現実の世界で、人と関わるのが少し苦手で、悩み、息苦しさを抱えて生きている"ごく普通"の女子なんですね。この事実こそ「六花」がなぜ「自己愛」の象徴なのか、その根拠でもあります。「(現実世界の)アカネ」はアレクシスにそそのかされ、世界を構築していきました。しかしその世界は何もかも「(現実世界の)アカネ」が把握し、事細かく設計しているわけではありません(アノシラスの言うように)。これは人間みな自分の心は自分でも制御しきれないし本質的に把握しきれるわけではないということを表されています。「(アカネ世界の)アカネ」は「(現実世界の)アカネ」が「自己否定」の象徴として作ったわけではもちろんなくて、「自己否定」の"表れ"という表現が適切かもしれません。「六花」はアカネが私を好きになるように作ったという発言をしています。これはあくまでアカネ世界での立ち位置としてはそうなんですが、実際はニュアンスが違うというか。「六花」は先述した「(現実世界の)アカネ」と同じく、ごく普通の女子です。行動、言動、良くも悪くも女子らしい、人間らしい女子。アカネがどんなことをしても、六花はアカネのことを諦めず、別れ際にはパスケースをアカネに持たせます。なぜパスケースなのか、それは、次の駅(前に進む)に行ってほしいし、私(あなたを肯定する存在)も付いてる。そういう意味があると思います。閉ざされたアカネ世界では電車に乗っても作り物の街が作られるだけで抜け出すことはできませんでした。さらに、パスケース自体はそもそも六花から渡されたものではありません。「(現実世界の)アカネ」が、元々持っていたもの(自己肯定心であり、現実に向き合いたいという気持ち)だったんですが、それを忘れてしまっていただけなのです。UNIONのMVでもそうであったように、劇中では「学校へ行くこと」は自分だけの世界に閉じこもるのではなく、他者との関わり、現実に向き合うことの象徴として描かれています。つまり電車に乗るために使う交通系ICカードを入れるパスケースというアイテムは、学校へ行く、現実に向き合おうという心そのものを表しています。そして、それをアカネ世界で思い出す(パスケースを取り戻す)物語こそ、SSSS.GRIDMANなんです。また、六花がアカネの「自己肯定」の表れであるというのにはもう一つ重大な裏付けがあり、それは「裕太」がアカネの「勇気」である根拠にも繋がっていきます。その前に、内海について解説します。内海はアカネの「逃避」の象徴、表れです。「逃避」とはなんぞや、ということですが、つまり現実逃避をする・したいという心のことです。内海はウルトラマンなど観たりすることが趣味で、言い換えれば「虚構」に対する"憧れ"を持つ人物です。虚構と言ってしまうとイメージの範囲が大きく狭まってしまうようですが、「自己肯定」「自己否定」などと同じく、これは人間誰にでもある感情です。現実世界での面倒な人間関係や仕事、学校、いじめ、国際問題、などなどそういう目を逸らしたくなるようなものから解放された、その人の趣味の世界。それはアニメでも特撮でも朝ドラでも洋画でも、釣りでもお酒でも、なんでもいいです。それを楽しんでる間はまるで自由になったかのような、純粋な楽しさを感じられる世界へ行きたいという気持ちのことをそれは表します。後述する、GRIDMAN UNIVERSEにおいてキーワードになる「人」と「怪獣」の関係にも結び付いていきますが、そういう意味では内海はアカネ世界においてアカネの次に「怪獣」に近い人物、とも言えるかもしれません。一見マイナスな印象を受けますが、「人」である限りは内海、つまり「逃避」は「人」が生きていく上で必ず必要なものです。決して排除すべき対象ではありません。だから"ジャンクの前にはみんなが必要"なんですね。繰り返しになりますが、人の持つ「逃避」あるいは「怪獣」の危うさについては、詳しくは後ほど解説します。最後に「裕太」がアカネの「勇気」である根拠について。作中で出てきたそれを裏付ける印象的なセリフを追って、解説していきます。まず、裕太は教室でアカネの隣の席に居ます。また、アカネが言うには「裕太」は「アカネ」を好きになるように作ったという発言があります。しかし、裕太はアカネの設定したことを無視してグリッドマンが宿る前から六花のことが好きでした。先述の内容を思い出して下さい。六花は、現実のアカネに近く、かつ現実のアカネを肯定する存在なんです。さらに、グリッドマンのセリフで"裕太だけが唯一、アカネの世界の中で特別"であることを示唆していました。たまたまではありません。他の誰でもない「裕太」だけが。外界から閉ざしたはずのアカネの世界の中で、外からの"お客様"であるグリッドマンがアクセスできてしまう「抜け穴」のような存在。そう、裕太はアカネの世界の中で唯一アカネの制御から外れた、つまりアカネにとって「他人」と同様の存在なんです。これは、アカネが意図してそうしたわけではもちろんなく、本当の自分、自分を愛せる自分、それを本心としてはアカネの制御下ではなく「他人」に愛されてみたい。そういう外界への興味、他者への関心、自分の世界に閉じこもっていてはいけない、逃げてばかりでいてはいけないという自覚、アカネにしかできないアカネのやるべきことが心の底ではわかっていて、それに踏み出したいという「勇気」の表れこそ、「響裕太」なのではないかと考えます。グリッドマンがヒーロー=「勇気」の象徴であるように、響裕太は人間誰しもが持つ「勇気の種」の象徴と捉えてもいいかしれません。その「勇気の種」を「勇気」に"変身"させることができるのは、他でもないその勇気の種の持ち主、自分自身だけ。つまり、"俺にしかできないこと、それが俺のやるべきこと"と言えます。

GRIDMAN UNIVERSEにおける「人」と「怪獣」

GRIDMAN UNIVERSEでは、怪獣は単なる倒すべき敵だったり、異形の存在というだけではありません。物語のメッセージから考えるに、むしろ概念としての意味合いが強く書かれています。「人」と「怪獣」それぞれを使って何が表されていたのか、追っていきます。

まず「怪獣」はSSSS.DYNAZENON含め「逃避」の象徴と考えていいでしょう。虚構だったり、無常の自由とも言い換えられます。ガウマ含め、怪獣使いたちはかつて国に仕える身分というか役職?に就いていたわけですが、国なのか、はたまた怪獣使いが居ない方が都合のいい人間なのか、何者かに仕組まれたことによって全員殺されてしまいます。死因に関してはジュウガが国に裏切られたからどうこう言っていますが、実際のところ詳細なり真相はわかりません(ボイスドラマ以上にその辺り詳しく言及されている資料があったらすみません)。ただ、細かい死因に関しては物語のメッセージにあまり影響しないのでここでは考察、追及しないこととします。ただ怪獣使いの面々が、"人を信用できなくなる"、"人として真っ当に生きることが嫌になる"そういうエピソードがあったという事実は明示されていることであり、これまでのGRIDMAN UNIVERSE 3作品の脚本に込められたメッセージを読み解くのに必須の認識です。怪獣使いはそのエピソードがあってから、ガウマを除いてみんな自暴自棄のようになってしまいますが、その方向性は4人とも別々です。中でもシズムは特異な存在です。中に怪獣を飼ってるからというわけではなく、蓬や夢芽と同じく、まだ酸いも甘いも知らない未成熟の子供だからです。シズムはまだ高校生ほどの年齢でありながら、5000年前に残酷で悲惨な死を遂げました。右も左もわからない状態だったのに、あまりに深い絶望を味わってしまったわけですね。シズムは蓬や夢芽に対して興味を持っていましたが、それは嘘偽りなく本心で純粋なものだと思います。内なる怪獣を育てるためとかでなく(結果そういうことになってしまったわけですが)。それは、シズムのキャラソンUn-Understandの歌詞に明示されています。蓬は怪獣使いの才能(アカネや他の怪獣優生思想と同じく無常の自由を求める存在)があると言われていたように、なんなら夢芽や暦などガウマ隊の全員に言えることですが、怪獣(あるいは怪獣優生思想)になってもおかしくない、そういう存在として描かれています。具体的には蓬は親の離婚、再婚だったりとか、夢芽なら香乃のこと、暦は将来のことなど、つまりは人はみな心に怪獣を飼っており、常にその危うさと隣り合わせであるということが表現されています。だからダイナゼノンが怪獣なのか、そうでないのかを問われたり、ガウマ隊が"君たちは怪獣使いなのか"と問われる描写が何度かありました。一歩間違えば怪獣・怪獣優生思想になっていたガウマ隊ですが、それは「ひめ」の意志を継いだ「ガウマ」がみんなを「人」として導いてくれました。人として守るべき3つのもの「約束」「愛」「賞味期限(!?)」は、人として守るべきものであり、人でなければ守れないものですよね。賞味期限に関してですが、私は3つ目は「絆」だと確信していた(長谷川圭一さんが書いているというのもヒントとして)ので、最初聞いた時ひめのボケだと思ったんですが、あながちそうでもないというか、グリッドマンユニバースのテーマこそ「賞味期限」だと今は断言できます。SSSS.DYNAZENONをベースにここまで書いてしまいましたが(言語化しやすかったので)、SSSS.GRIDMANにおける「人」と「怪獣」の持つ意味も同様と考えていいと思います。

SSSS.DYNAZENONは如何にして作られたか

SSSS.DYNAZENONは如何にして作られたか、考察というかほとんど妄想の域で今まで考えていたことだったのですが、グリッドマンユニバースを観てそれが確信に変わりました。そして、グリッドマンユニバースが何を言いたい物語だったのかを知るのに認識でもあるのでここで共有したいと思います。
※ダイナドラゴンが云々という話ももちろんありますが、ここでは脚本に関して追求していきます

SSSS.GRIDMANの放送当時の評判を見ていると、先述した「裕太」とはなんなのか、「人」とは「怪獣」とはという物語の軸・メッセージの部分をあまり読み取れていない方が多く見受けられました。一方で、シンプルに特撮ヒーローものとして楽しめている方は多くいらっしゃると思います。実際SSSS.GRIDMANはいまどきのアニメではかなり難解な部類に入ると思います。SSSS.GRIDMANが結局何が言いたい作品なのか、それをしっかり理解するには周回が必須(私もある程度理解するまで相当かかりました)と言ってもいいです。グリッドマンユニバースの劇中劇グリッドマン物語の脚本について内海と六花が議論する中で、エンタメとドラマどっちを優先すべきかというような会話があったかと思います。その中で、六花はアカネのこと(つまりドラマ部分)を脚本から切り捨てることにしていました。その代わりに内海の重視していたエンタメの部分、ガウマ隊のエピソードが脚本に盛り込めるようになります。しかし、裕太は内海とは違いエンタメ重視の劇よりも、ドラマ重視の劇で感動しており、六花にも、アカネのこと(SSSS.GRIDMANを通して伝えたいこと)こそ六花の伝えたいことであり、六花にとって最も重要なことではないのかと問いかけていました。これはまさに、SSSS.GRIDMANというアニメ、GRIDMAN UNIVERSE作品群そのものの実情を表していますよね。求められていることと、書きたいこと、その中で揺れる葛藤が劇中劇の制作という形でそのまま表現されています。比喩表現が強かったため難解で伝わりづらく、地味でつまらないと言われてしまったSSSS.GRIDMANのドラマの要素、でもそれはSSSS.GRIDMANにおいて物語の軸であり最も重要と言えるメッセージが込められたドラマなんです。しかし、大衆性に欠けるためSSSS.DYNAZENONはその反省を活かしてか、SSSS.GRIDMANと比べて内容はかなり明解でエンタメの要素も強く書かれていました。そのあたりはおそらく、意識して書かれていると思います。まるでSSSS.DYNAZENONを批判するような文章に見えますが、これは良し悪しの話ではないのでご安心ください。私はSSSS.GRIDMANもSSSS.DYNAZENONも好きです。何を意識して作品作りされているのか、ということですね。
SSSS.DYNAZENON誕生の経緯について理解いただけたところで、いよいよ本題に入ります。

『グリッドマンユニバース』に込められたメッセージとは何なのか

グリッドマンユニバースでメインに据えられている要素として、裕太から六花への告白、ガウマ隊のガウマとの再会、グリッドマンの後悔などなど、あったと思います。共通して言えるのは、これらは全て"思い残した記憶"なんですよね。あぁしておけばよかった、こうしておけばよかった、そういう各々の思いが強調して描かれています。そして、一見ギャグにも見える「賞味期限」というキーワード、これもグリッドマンユニバースの軸になっているメッセージです。裕太から六花への告白に関して、"遅い"、"タイミングを逃してる"、そういう発言があったと思います。賞味期限というキーワードはここと通じてきます。ガウマはひめに、引きずりすぎ、いい加減前を向けという風に励まされます。これはガウマの"弱さ"ですね。でもガウマは蓬たちに大切なことを教え、新たな場所で、新たな仲間たちと明日に向かっていきます。グリッドマンも同じく、SSSS.GRIDMANでは頼れる存在という印象が強かったと思いますが今回グリッドマンの"弱さ"が描かれていました。これらが賞味期限や六花への告白などとどう繋がるのかというと、キャリバーの言葉を借りるなら「やれることを、やれ」ということだと思います。つまり、人間みな誰しも間違いを犯すし、後悔もしながら生きていく。でもその過去に囚われて立ち止まっていてはいけない。いつその限りある命が終わってもいいように、いつこの世の終わりが来てもいいように、後悔しないように自分にできることをやっていこうと。そういうことだと受け取りました。取り返しのつかないことになる前に。また、六花は裕太に対して"遅すぎたかもしれないけど裕太のことを好きになれたからこれはこれでよかった"という風に肯定してくれましたよね。今更な…と思ってくよくよして挑戦しないで後から後悔するよりも、「勇気」を持って挑戦していこうよ、ということですね。たとえそれで結果後悔することになってもいいんです。後悔などそういう辛いことから逃げ続けたなれの果て、無常の自由こそ「怪獣」の姿、というわけです。蓬や夢芽はガウマから、そういう現実に真っ向から向き合うことの大切さ、「人」であることの尊さを教えてもらい、かけがえのない不自由を手にしていくことを選びました。"諦めないこと"、そういうことがGRIDMAN UNIVERSEでは描かれてきました。そして今回グリッドマンユニバースでは"挑戦に遅すぎるということはない"、"思い残した記憶に対してのリベンジ"そういうことがより強調されていたと思います。なぜ、それが強調されることになったのか。それは、SSSS.GRIDMANのリベンジ、更には『電光超人グリッドマン』のリベンジ、それらへの思いが込められていると思います。先述した通りSSSS.GRIDMANは書き手のメッセージがあまり伝わらず批判的な意見も多かったと思います。それを反省してかSSSS.DYNAZENONでは方向転換されていました。しかし、劇中劇の制作に取り組む六花に対して裕太が放った言葉のように、本当に伝えたかったことを切り捨てていいのか、そういう葛藤が書き手にはあったはずです。結果どうなったか、それが内海の終盤のセリフにあった"楽しんでもらえたならよかった"という結論に至ったんだと思います。裕太が見ていた回の劇中劇『グリッドマンユニバース』は、内海が強くパンチ?しすぎてトラブっていました。書き手の意図していない形ではあったものの、観客たちは楽しそうにしていました。『グリッドマン物語』及び『グリッドマンユニバース』は作中"奇抜な作品"である、という扱いになっています。この「奇抜」というのは、書き手の意図が伝わっていない、そういったことを表していると考えます。でも、最後内海は"楽しんでもらえたならよかった"というように発言していました。実際、今回グリッドマンユニバースの内容はSSSS.DYNAZENONの時よりも比喩的な表現だったり、書き手の意志が色濃く描かれていたと思います。でもそれでいて、エンタメの要素(恋愛模様や新たな形態など視聴者に望まれたシーン)も余さず盛り込まれていました。これこそ、SSSS.GRIDMAN、SSSS.DYNAZENONを経て、導き出された書き手の作品作りの一つの回答であり、メッセージでもあると思います。また『電光超人グリッドマン』は、よく「早すぎた名作」という表現がされます。約30年も早すぎたわけです。相応の評価をされるには生まれるタイミングが違いすぎた。そう、裕太から六花への告白と同じなんです。グリッドマンユニバースそのものが『電光超人グリッドマン』のリベンジであり、グリッドマン(電光超人グリッドマン)の力を借りたアカネ(GRIDMAN UNIVERSE)からグリッドマンへの感謝でもある。そういう映画だったんじゃないかな、と思います。

最後に

自分のことを「覚醒」させられるのは自分だけ。自分にしかできない、自分のやるべきことです。しかし、SSSS.GRIDMANではグリッドマンが、SSSS.DYNAZENONではガウマが頼れる強い存在として書かれていたと思いますが、今回彼らの"弱さ"が強調して描かれました。人はみな、弱さ・脆さを抱えています。「個」ではとても弱い。だからこそ、人は約束や愛、人と人との繋がり「絆」を大切にする・すべき生き物です。時には現実から逃れたくなるような、無常の自由を求める「怪獣」にでもなってしまいたくなるような、そんな困難や絶望に直面した時、自分の弱さを隠し否定するのではなく、「勇気」を持って、弱さを認め時には人を頼り、自らを「覚醒」させ、過去ではなく未来のために、「人」として歩んでいきたい。GRIDMAN UNIVERSEはそう思わせてくれる物語たちでした。

もし本記事を読んで新たな発見があった方がいたら幸いです。以上、ここまで読んでいただきありがとうございました。

追記:最後の「蟹」について
作品を通して「ひめ」は脚本家の代弁者であるわけですが、その蟹(作品のメッセージそのもの)はひめからガウマ、ガウマから蓬まで渡っていきます。諦めないことが大事とか、挑戦に遅いなんてことはないとか、限りある命の尊さとかGRIDMAN UNIVERSEは言ってしまえば3作品すべて当たり前で「普通」のことしか言ってないんです。そして、その「普通」のことが一番難しいということも主張されています。また、生産者(脚本家)の思いや意図を気にしないで食べる(観る)人が大半、というところもかかっていますね。ヒーローの助けでヒロインが救われるとか、ロボットが怪獣倒しながら主人公とヒロインが結ばれるとか、ごく普通の展開でごく当たり前のメッセージを、見方によっては「奇抜」と捉えられるような描き方で描いた作品。美味しいと思う人もいれば、不味いと思う人もいる。それがGRIDMAN UNIVERSEだと、そういう総括的な意味があの蟹には込められていると思います。


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