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ムービー・オージー・クロニクル その8

『ムービー・オージー』を放置してる間、ダンテはどうしてたかという話

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「キャンプ・ムービー・ナイト」として始まり、約10年間続いた『ムービー・オージー』の上映は、様々な理由が重なったことで終了することになった。7時間におよぶフィルム(そして本編には使用されていない膨大なネタ素材)はダンテのガレージに無造作に放置されることになった――

これまで何度か書いてきたように、元々『ムービー・オージー』はパフォーマンスアート的なイベントであり、”映画”を作ろうとしてスタートした企画ではなかった。ダンテ自身も映画監督志望というわけではなく、カートゥニストを目指してフィラデルフィア・カレッジ・オブ・アートに入学した。ところが大学側からは「そんなものはアートではない」と言われてしまう。
また当時は、いろんなカートゥーンスタジオが規模を縮小していた時期でもあったため、将来の就職先の不安もあったようだ。
卒業後の働き口を考えた結果、カートゥーンに近いもの…という理由で映画の道に進むことになったという経緯がある。
『ムービー・オージー』の後、ダンテとデイヴィソンは「Cannibal Orgy」という(アニメ?)映画を企画していたようだが、これは残念ながら実現することは無かった。

一方デイヴィソンは、ジョナサン・カプラン監督作品の脚本に協力したことをきっかけに、1973年、ロジャー・コーマンの映画会社、ニューワールド・ピクチャーズで働き始めたのは前回も書いた通りだが、同時期にダンテも脚本協力や、ダイアログ監督などで参加していた。しかし結局企画が中止になったり、ダミーでクレジットされただけで、実際にはアルバイト的な参加だったと思われる。
その後、前任の担当者が亡くなったため、デイヴィソンは広告担当者に抜擢された。そして「すぐにジョーにロサンゼルスに来て予告編1本編集してみないか?と連絡したんだ」
ダンテはテスト的に『いけない女教師』(1973年・未)の予告編を作ることになったが、組合に加入していなかったため、フィルムに触れることが出来ず、監修のみを行った。

『いけない女教師』ポスター

デイヴィソンはその時のことについて「ジョー(・ダンテ)が作った予告篇はかなり良かった。ジョーに会社に残るように頼んだけど、フィラデルフィアに帰って、映画評論雑誌「Film Bulletin」の仕事に戻ったんだ」と語っている。
1968年から74年まで「Film Bulletin」に映画批評を執筆していたダンテは、最終的にはマネージング・エディターという肩書で、編集長にまでなったようだが、デイヴィソンによると「ジョーはほぼ唯一の従業員だった。雑誌はいつも破産寸前で、広告を集めるために物乞いのようなことをしていたりね」という状況だったようだ。
ダンテはデイヴィソンの誘いを断った理由について、旅行そのものだったと語っている。「『ムービー・オージー』を除いて、僕はどこにも旅行したことがなかった。引っ越しは人生最大の変化だよ」しかし実は当時、ダンテの家族の問題や、結婚を控えていたことなど、個人的な都合で引っ越しできなかったという理由もあったようだ。

しかし1974年、最終的にダンテはニューワールド・ピクチャーズに入ることにした。デイヴィソンは「(ロサンゼルスに来た一番の理由は)「Film Bulletin」は彼に一銭も払えなかったからさ」と言うが、ダンテ自身は「単純に言うと、もしこの世界でやっていこうと思うなら、これがチャンスだと思ったんだ」と語っている。
デイヴィソンは上司を説得して予告編専門の部署を立ち上げ、ダンテにそのポジションを与えた。
こうしてダンテは映画界への最初のステップを踏み出すことになった。

とは言え、不安も大きかった。『ムービー・オージー』は16mmフィルムで作っていたし、『いけない女教師』の予告編もTV用の16mmフィルムだったので、ニューワールドで編集をするようになって、ダンテは初めて35mmフィルムを扱うことになった。
「とにかく僕はロジャー(・コーマン)の会社に採用されるまで35mmに触ったことがなかった。ロジャーのために働きに出て来た人たちと同じで、僕は全く何も知らなかったんだ」
会社からは、ダンテが予告編を作るためのスキルを持っていると思われていたが、当然そんなものはない。「ロジャーのやり方は”泳ぐか溺れるか”というものだった」とダンテが語っているように、とにかく必死でその状況に適応しなければならなかったようだ。
当時、車を持っていなかったダンテは、フィルムを抱えてバスで編集スタジオに通っていたが、ある時、急いでサンタモニカ大通りを走っている時、あやまってフィルムを池に落としてしまったこともあった。コーマンからはその事については特に何も言われなかったが、それよりも遅刻だけはしないように強く警告したという。
「でも、僕は何とか35mmをカットし、予告編を作る方法を学ぶことが出来たよ」
ダンテは独学で編集の仕方を覚え、さらに映画製作についても多くのことを学んだと語っているが、『ムービー・オージー』をやっていなければ、この仕事は出来なかったとも考えていた。

予告編製作部時代のジョー・ダンテ

『TNT ジャクソン』(1974年・未)、『デス・レース2000年』(1975年)、『アンディ・ウォーホルのBAD』(1977年)、『フェリーニのアマルコルド』(1973年)、『トリュフォーの思春期』(1976年)など、ダンテが作った数多くの予告編の中には、『日本沈没』(1973年)もあったが、ニューワールドが1975年に配給したアメリカ公開版は『Tidal Wave』のタイトルで、上映時間140分ほどのオリジナルバージョンを約90分に短縮・再編集したバージョンだった。しかも「ボナンザ」(1959~73年)などの俳優、ローン・グリーンの出演シーンを別撮りで追加したものになっている。(ローン・グリーンは1974年に『大地震』に出演していたので、そのイメージも利用していたかもしれない)

『Tidal Wave(日本沈没)』ポスター

『Tidal Wave』は、日本映画であることを一切隠して、アメリカ映画のような売り込み方をしており、宣伝資料には俳優はローン・グリーンの写真しか使用されておらず、予告編にも日本人俳優は登場していない。

『Tidal Wave』プレスシートより。

そのことを聞かれたダンテはこう答えている。
「僕の作った予告編だけが詐欺だなんて言わないで欲しいね。だって、アメリカ版の本編そのものが詐欺なんだから。(中略)確かに僕の作った予告編は褒められたものじゃない。非難されてもしかたないだろう」

こうしてニューワールドで予告編(時には映画本編も)の編集を続けていたダンテだったが、監督デビューにつながる出来事が起こる。
「ある時僕は、予告編部門でいっしょに仕事をすることになったアラン・アーカッシュと3種類の予告編を同時に作っていた。ロジャーがイタリアから輸入した『フェリーニのアマルコルド』とクンフー映画の『TNT ジャクソン』、それに『Street Girls』(1975年・未)の予告編だ。で、僕たちはその3本のフィルムを間違ってゴチャ混ぜにしてしまい、フェリーニがクンフー映画の途中に出てきたんだ。そこで思いついたのが何本かの映画のフッテージを使い、ほんの少し別撮りしたフィルムを付け足してうまく編集したら、また別の映画になるんじゃないかということだった。『ムービー・オージー』のアイディアにロジャーの商業主義をブレンドしたようなものさ」

『フェリーニのアマルコルド』ニューワールド配給版ポスター
『TNT ジャクソン』ポスター
『Street Girls』ポスター

「フェリーニがクンフー映画の途中に出てきた」というのは少々話を盛っているようにも思えるが、その辺りの真偽はともかく、ダンテ・アーカッシュ・デイヴィソンの3人は映画を作る許可を得るため、ロジャー・コーマンの説得にかかるが、なかなか許可されなかった。
ダンテ達を含め、ニューワールドで働いている人達は、いつか自分の映画を作りたいという目的があるからこそ安い給料で働いていた。しかし、映画を作るために、彼らが職場を離れることになれば、代わりの人を雇わなくてはならず、余計な金がかかる。
「それ(金がかかること)はロジャーの主義に反するんだよ」
なにしろコーマンの自伝のタイトルからして「私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか(How I Made A Hundred Movies In Hollywood And Never Lost A Dime)」である。余計な出費は絶対にしたくないのだ。

「How I Made A Hundred Movies In Hollywood And Never Lost A Dime」

「けれどね、僕たちは頑固だった。ジョン(・デイヴィソン)はロジャーを説き伏せて、もしそれがロジャーの会社で作られたどの映画よりも安く上がれば、やってもいいという許可を得たんだ」
コーマンがダンテたちに提示したのは【予算6万ドル以内、撮影期間10日以内】という条件だった。ここまで無理な条件なら諦めるだろうとコーマンは思ったのかもしれない。

ダンテたちは倉庫に眠っていた大量の映画のフッテージを使って、ニューワールド・ピクチャーズに似た、小さな映画会社を舞台にした映画を作り上げた。
ダンテとアーカッシュが共同監督した『ハリウッド・ブルバード』(1976年)がそれだ。

ついにプロの映画監督としてデビューしたダンテだが、やったことはほとんどアマチュア時代と変わらない。
例えば『ムービー・オージー』では、モリス・アンクラムという俳優が、いつも似たような軍人役をやっていることに目をつけ、巨大な怪物や宇宙人と戦っているかのように編集したが、『ハリウッド・ブルバード』でも、『残酷女刑務所』(1971年)、『女体拷問鬼看守パム』(1971年)、『残虐全裸女収容所』(1972年)、『女刑務所・白昼の暴動』(1974年)という、同じ俳優が出演していたり、舞台が似ている作品の素材をかき集め、そこに新しく撮影した映像をインサートして、一本の映画のように見せている。これは明らかに『ムービー・オージー』の延長線上にある手法だ。
さらに『デス・レース2000年』、『ビッグ・バッド・ママ』(1974年)、『Unholy Rollers』(1972年・未)、『Night of the Cobra Woman』(1972年・未)などの映像も劇中劇として使うなど、予算をかけずにしっかりコーマンからの無理な条件をクリアした作品に仕上げている。
そしてその上で、ダンテたちは『ハリウッド・ブルバード』を個人的なものにしようと努力したと語っている。
「アラン(・アーカッシュ)はロックンロールが好きで、だからコマンダー・コディ&ロスト・プラネット・エアーメンというロックグループを登場させたし、僕はSFやモンスターが好きだからゴジラやロビー・ザ・ロボットを持ってきた。また、ロジャーが監督した古い怪奇映画の常連俳優ディック・ミラーを起用してみたよ」

『ハリウッド・ブルバード』は、興行的には成功とは言えなかったが、ケーブルテレビで繰り返し流されたことで、カルト的な人気を得ることができた。
その後ダンテは『ピラニア』(1978年)、『ロックンロール・ハイスクール』(1979年・アラン・アーカッシュ監督 ダンテは共同原案と一部演出を担当)、『ハウリング』(1981年)、『トワイライトゾーン/超次元の体験』(1983年 第3話とエピローグ部分を監督)、『グレムリン』(1984年)と、商業映画監督としてのキャリアを築いていく。

参考資料

●編 中子真治.(1984年)『グレムリン100%』学習研究社.
●ÁLVARO PITA.(2021年)『JOE DANTE EN EL LÍMITE DE LA REALIDAD -EDICIÓN REVISADA Y AMPLIADA-』APPLEHEAD TEAM.
●Collin Souter.「Joe Dante on The Movie Orgy」. Movie reviews and ratings by Film Critic Roger Ebert. <https://www.rogerebert.com/interviews/joe-dante-on-the-movie-orgy>(最終閲覧日:2024年8月1日)
●Simon Abrams.「Like Going to Church: Joe Dante on "The Movie Orgy"」. Movie reviews and ratings by Film Critic Roger Ebert. <https://www.rogerebert.com/interviews/like-going-to-church-joe-dante-on-the-movie-orgy>(最終閲覧日:2024年8月1日)
●「Joe Dante」. Filmmuseum. <https://www.filmmuseum.at/en/film_program/scope?schienen_id=1374654433683>(最終閲覧日:2024年8月1日)
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●Dennis Cozzalio.「“These things are part of my DNA”: JOE DANTE AND THE RETURN OF DANTE’S INFERNO」SERGIO LEONE AND THE INFIELD FLY RULE. < http://sergioleoneifr.blogspot.com/2009/08/these-things-are-part-of-my-dna-joe.html>(最終閲覧日:2024年8月1日)
●Michael Flintop・Stefan Jung.(2014年)『Joe Dante: Spielplatz der Anarchie』Bertz + Fischer.
●Frank Falisi.「Basic Instinct: Getting Lost in Joe Dante's "The Movie Orgy"」MUBI: Watch and Discover Movies.
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<http://legacy.aintitcool.com/node/41944>(最終閲覧日:2024年8月2日)
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<https://legacy.aintitcool.com/node/50685>(最終閲覧日:2024年8月2日)
●Natalia Keogan.「“Self-Aware Doesn’t Work for Us”: Joe Dante on The Movie Orgy, Matinee at 30 and William Castle’s The Tingler」Filmmaker Magazine.
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●「Fillmore East Video」. <http://www.joshualightshow.com/classic-videos/classic-videos-1>(最終閲覧日2024年8月22日)
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●Michael Sragow. 「Interview: Joe Dante(Part One&Two)」. < https://www.filmcomment.com/blog/interview-joe-dante/>(最終閲覧日2025年1月21日)
●David Cains. 「”I want to give you a piece of my mind”: Interview with Joe Dante (Part 1&2)」. <https://mubi.com/en/notebook/posts/i-want-to-give-you-a-piece-of-my-mind-interview-with-joe-dante-part-1>(最終閲覧日2025年1月21日)

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