『ムービー・オージー』はそもそも"映画"ではなかったという話
その2はこちら
前回はダンテが学内で上映イベント「キャンプ・ムービー・ナイト」を開催し、それが『ムービー・オージー』の種となったというところまで書いたが、その続きに行く前に一旦《キャンプ》という考え方について触れておきたい。
《キャンプ》とは、アメリカの作家・スーザン・ソンタグが1964年に発表したエッセイ「《キャンプ》についてのノート」によって広く知られるようになった芸術批評などの用語で、失敗した真面目さ、不自然なもの、人工的なもの、大袈裟に誇張されたものへの愛情、などなど様々な説明がなされている。ソンタグによると「ある種の情熱的な失敗の中に成功を見出す」ということのようだが、ダンテの解釈では
「スーザン・ソンタグが広めたこの考えは、人々が真剣に受け止めるはずのものを笑うという意味だった」ということになる。
「キャンプ・ムービー・ナイト」で上映した連続活劇『ファントム・クリープス』は制作当時、観客の心を掴み、早く続きを見たいと期待を持たせる真面目な、真剣な娯楽作品だった。ダンテはそれを全てつなげて見せることで、その時には気づかれなかった不自然さや大袈裟な部分を強調して現在の観客に提示したのだ。
だからといって、ダンテは連続活劇やCM、古いテレビ番組など自身のフィルムコレクションを決してバカにしているわけでは無い。
「エド・ウッドの映画のように[製作者]が[作品]を真剣に受け止めているという事実が、この映画を面白くしているんだ。それがまさにキャンプの本質だ」とも発言しているし、批評家ピーター・ソブチンスキーは『ムービー・オージー』について「ダンテは明らかに映写されているばかげたものを楽しんでいるが、決してそれらを嘲笑することはない」と評している。
そして《キャンプ》と同時に、もう一つ影響を与えた作品がある。
1966年9月に公開された『チェルシー・ガールズ』(アンディ・ウォーホル、ポール・モリセイ監督)がそれだ。
チェルシー・ホテルの客室を中心に様々な場所で撮影されたセミ・ドキュメンタリー作品で、それまでも数多くの実験映画、前衛映画を発表してきたウォーホルの初めて商業的に成功した映画だという。
左右に2分割されたスプリットスクリーンのこの作品、公開当時は上映のたびにリールの順番と切り替えのタイミングが変わるため、同じ上映は2度と無かった。
ダンテによると「ウォーホルは常に異なる同期で映画を上映した。そのため2度と同じパフォーマンスが行われることがなかったんだよ。時には両側の映像がお互いについてコメントし合うこともあれば、何の関係もないこともあった」
ダンテは、そのイメージの相互作用というアイディアに興味をそそられた。
左右の映像が互いにコメントし合ってるように見える時は、個別に投影されるよりもはるかに面白かったと感じたダンテは、さすがに分割画面にはしなかったものの、編集によってその面白さを生み出そうとする。
それまでは『ファントム・クリープス』各章の合間に流していた自身のフィルムコレクションを、時にはシーンの途中で切り替えることもした。
例えば『ファントム・クリープス』の終盤、マッドサイエンティストが起こす爆発シーンの途中、ダンテが用意した大量の爆発、火山の噴火などの映像に切り替え、ばかばかしさを増す見せ方をした。
これがキャンプ感のさらなる盛り上げを生み、イメージの相互作用による面白さを強調することになった。
こうして『ファントム・クリープス』と追加素材を組み合わせたものが『ムービー・オージー』の基本的なフォーマットになっていく。
ただし、『ファントム・クリープス』はレンタルしたフィルムだったため、途中で切って他のフィルムを繋ぐことはできなかった。
また、観客やダンテたちのノリに合わせて2台の映写機を切り替えていたので、そのタイミングは毎回異なり、『チェルシー・ガールズ』同様、毎回違う上映になった。
さらに新しい映像素材を見つけると、それらを追加したり、順番を入れ替えたり、あまりウケなかった部分は削除したりした。つまり、単なる映画の上映会ではなく、映像を使ったライブパフォーマンスだったのだ。
この上映は(というより上演か?)1年ほどフィラデルフィアのキャンパスで時折行われるようになった。
いまだタイトルこそ付いていないものの、1966年から行われたこのライブパフォーマンスこそが『ムービー・オージー』の始まりと言っていいだろう。
そして、このライブ版『ムービー・オージー』がきっかけとなり、いよいよダンテとディヴィソンは動き出すことになるのだ。
その4はこちら