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時の彼方で ~最終章・和歌子(わかこ)~

「え…転勤?」
『うん。九州の支社に決まったんだ』
「嘘でしょ!九州なんて遠すぎる!」
『ごめん』
「単身赴任じゃないの?」
『うん。娘の中学入学を機に家族で引っ越すことになったよ』
「そんな…」

私はパートで10年ほど同じ会社に勤めている。彼は7年前に転職組で入社してきた。年数から言えば私の方が先輩だし歳も10歳も上だが、同じ管理部で働いているので同僚だ。彼が入ってきた時、既に30歳を越えていたが、日焼きした肌に八重歯が片方あり可愛らしい顔立ちで、学生のような印象だったのを良く覚えている。人懐こくて誰にでも隔たりのない態度がパート仲間の女性達にも受け、すぐにみんなと馴染んだ。最初は可愛らしい弟のような存在だと思っていた。仕事覚えが早く、一生懸命な姿を見るたびに応援したいような気持ちが、いつしか恋心へと変わっていった。

私はその頃、娘の受験や息子の反抗期、自分の更年期や夫とのセックスレスで何もかもが嫌になっていた。パート仲間とは一緒にご飯を食べに行ったり、時には飲み会に行ったりとそれなりに楽しくやっていたが、女性特有のいやらしさと言うのか。旦那やママ友の愚痴や陰口などで辟易としてしまい、体調不良を言い訳に飲み会も何度か続けて断っていた。

そんな時、会社主催の飲み会があり渋々出席する事になった。その席に彼も参加していた。私は彼の隣に偶然座り、おしゃべりに夢中になった。私より若い男性。主人とは7つ離れているので、よけい彼がまぶしく爽やかに感じた。私のつまらない話にも熱心にうなずき、私が知らない世界の話を面白おかしく聞かせてくれる。屈託なく笑う彼の笑顔は日々の生活に疲れ、落ち込みがちの私を癒してくれた。私が年上だからか、先輩だからか、何かと気を遣って声を掛けてくれる。カクテルを注文してくれたり、トイレに立つ時には優しくエスコートしてくれたり。私はしばらくぶりの、本当に久しく経験していなかった「お姫様扱い」をされ、舞い上がっていた。飲むピッチも早くなり、お開きになる頃には真っ直ぐに歩くことすら出来なかった。

『大丈夫ですか?近くまで送りましょうか?』
私は彼の言葉にうなずき、みんなと別れて駅方向に歩いた。酔いは回っていたが気持ち悪くなったり立てないほどではない。
「このままじゃ家に帰れないわ」
『じゃあ、近くのカフェでコーヒーでも飲んで行きましょう』

彼は私の腕を掴んで、お洒落なコーヒーショップに入った。金曜日の夜だからだろうか。ボックス席はカップルや若い女の子のグループで一杯だった。仕方なくカウンターの隅に2人で並んで座った。

『和歌子さん、今日はどうしたんですか?ちょっと飲み過ぎですよ』
パート仲間が下の名前で呼び合っているのを聞いていたのか、普段は苗字で呼ぶ彼が、私を下の名前で呼んだ。ドキッとして
「あら、あなたこそ酔ってるんじゃないの?」と、からかうような言い方をして彼の顔を見上げた。

彼のちょっと日に焼けた可愛らしい顔が何だかたくましく見える。
『それ飲んだら帰りましょう。ご家族が心配しますよ』
彼はちょっと横を向いてコーヒーを一気に飲み干した。


「まだ帰りたくない…」
何を言ってるんだろう、私。こんな少女みたいな、若い女の子みたいなこと言って…。ほら、彼の困ったような顔。どうする?笑い話にしようか。そんな事を内心考えながら黙っていると、彼が不意に伝票を持って立ち上がった。そして私の腕を優しく掴み、半ば強引に席を立たせると素早くお会計を済ませ店の外に出た。

「2人きりなれる所に行きたい」
私は「ある種の」覚悟をしてそう言うと、彼は一瞬戸惑ったような顔をしたが、意を決したように私の肩を抱き、繁華街の通りを抜けたビジネスホテルのような外観の部屋に連れて行った。手馴れたように受付で鍵を受け取ると、黙ったままエレベーターに乗り込む。312号室。偶然だけど私の誕生日と同じ。何だか運命のようなものを感じた。

部屋に入ると、彼は優しく私を手招きソファに座らせた。
『今夜はお互いに酔ってるから』
そんな言い訳じみた事を言うと、私の髪をなで唇を合わせてきた。コロンか何かつけているの?ふわっと良い匂いがした。歩いている最中に口に入れたのか、ミントの飴のような香りがする。やだ。私、お酒臭くない?歯も磨いてないし、おつまみ何食べたっけ?にんにく入ってなかった?

彼は最初は優しく唇だけを重ねてきた。想像していたより柔らかい唇。幼い顔をしている割には結構遊んできたのかな。キスも上手だった。彼が私の背中に手を回してきて、服の上から下着を外そうとする。
「ちょっと待って!」
私は必死に彼の手を押さえた。シャワー浴びてないじゃない。仕事帰りで汗臭い上に、居酒屋でお酒やらタバコやら絶対臭うはず。歯も磨いてないのに…。彼より年上の私は、既に更年期障害も出ている中年だ。加齢臭なんてまだないと思うけど…このままするのはいや。

「ちょっと汗かいてるからシャワー浴びてくるわ」
『いいよ、別に』
「私が嫌なの」

洗面台のかごに置いてあったバスタオルを掴んで急いでバスルームに飛び込んだ。本当に良いんだろうか。私は夫も子供もいる身だし、年上だし、会社の同僚だし…。考えてみれば彼にも妻子がいる。まだ小さい娘さん…だったかな。奥さんに構ってもらえないのか。それにしたって…私みたいなおばさんを選ばなくても、会社には若くて可愛い女の子がたくさんいるのに。でも相手に本気になられたら、それもまずいのか。結婚を迫られたりすると困るだろうし。私みたいな既婚・子持ちのおばちゃんなら問題ないと思ったのか…。

見下されたようでちょっと悔しい思いが頭をよぎったが、それ以上に久しぶりの若くて可愛らしい男性に、ひと時でも愛される自分を想像して高揚してしまい、気持ちを抑えることが出来なかった。常識や建前、歳や立場なんて、その時はどうでも良かった。

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週が空けた月曜日。私は何気ない顔で出勤した。彼はもう既にデスクに着いていた。
『おはようございます』

いつもの爽やかな笑顔。割り切った関係だと思っていたのに…その屈託のない顔を見てキュンとしてしまうなんて…馬鹿みたい。こんな歳になって、こんな経験をするとは思ってもみなかった。大学を出て就職して職場で出会った主人と結婚して。子どもを産んで育児して、ようやく親としての役目も終わりを迎えようとしているこんな時期に…。

まさかもう1度誰かにときめく事があるなんて。もうおばさんだから、この先は主人と子ども達の独立を見送って、刺激がなくても穏やかな老後を送るはずだった。何年か後には孫も出来るだろう。「おばあちゃん」と呼ばれるのが当たり前の歳になっていく…。それで良かったんじゃないの?

主人はあまり趣味もなく、大して話が合うわけでもないけど、真面目にずっと家族のために働いてきてくれた。もう何年もしないうちに定年を迎え、毎日顔を合わせることになる。白髪交じりの髪は、若い頃より大分薄くなった。学生時代はラグビー部で鍛えたという逞しかった身体もお腹が出て中年太りだ。出会った頃は爽やかで不器用で、ちょっとおっちょこちょいの性格も可愛いと思っていた。口下手で無言の時間が続いても、実直で誠実な人なんだと全てが素敵に見えていた。

結婚して20年以上も経つと、家族としては大切に思えても異性としては見られなくなっていく。子どもが生まれるまで2人でお洒落なお店に外食に行ったり、ドライブに行ったり、ワインで酔った私を優しく抱き寄せて甘いキスもしてくれた。全てがドキドキして煌めいていた。当時は結婚してずっと一緒にいられることがどんなに幸せだったか。一生この人についていく、この人だけを愛していくと誓ったのに…。

子どもが出来るとお互いに恋人同士ではなくなった。名前で呼んでいた関係性もいつの間にかパパ、ママと呼び合った。私は育児で主人の事は二の次になり、主人は仕事が多忙になってすれ違いが多くなった。

子どもが幼稚園に通い始めると、ママ友の関係で神経をすり減らし、イライラも愚痴も多くなった私を主人は人ごとのようにスルーした。今思えば、あの頃は彼も部下が出来たり仕事量が増えてクタクタだったのだ。でも、そんな事をお互いに思いやれるほど余裕はなかった。小学校に入ればPTAの仕事が待っていた。子ども達のためには引き受けても良いと思ったけど、したくもないお付き合いには心身ともに疲弊した。

受験や反抗期など、子どものいる人が通過する過程はほとんど経験してきた。今は娘も就職が決まって、息子も大学生活を謳歌している。私自身もパートの仕事は大変だけど、やりがいもあるし自由に使えるお金も少しだけ増えた。

あと3年もすれば息子も大学を卒業し巣立っていくだろう。ようやく自分だけのために使える時間やお金が出来る。女友達と韓国にでもエステツアーに行こうか、定年した主人と豪華客船で世界一周でもしようか、新しい習い事でも始めようか。あれこれと老い先の楽しみを想像して、穏やかな幸せを大切にしようと思っていた矢先の事だった。

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同じ会社の同僚で、10歳も年下の彼と不倫関係なんて…。本人同士がどう思っていたとしても、世間で認められるような関係じゃない。会社や家族にバレたらどうなるんだろう。2人ともクビになるかもしれない。

彼はクビにならなくても左遷は免れないだろう。主人は定年を迎える前に、妻の不貞が分かれば離婚を決心するかもしれない。浮気をするような女に退職金や年金を渡すなんて事はしたくもないだろう。多感な年頃の子ども達は私を軽蔑するかな。娘は同性だから嫌でも女という部分で理解してくれるかもしれないが、息子は汚いものでも見るように私を見るかもしれない。女性不信にでもなったらどうしようか。

彼の家庭はどうだろう?彼より年下の奥さんは娘を抱えて離婚を選択するだろうか。1回は許すかもしれない。子どものためを思って離婚は留まっても、浮気をした事実は消えることはないだろう。その先何年も夫婦としてやっていけるのだろうか。

1度だけ奥さんを見たことがある。会社に彼の忘れた書類を届けに来た時だ。きれいな細い人だった。あまり化粧っ気のない地味な装いだったが、若さがにじみ出ていた。子どもを産んでいるのに腕もウエストも細く、シミもシワもないような白い肌がまぶしかった。

『主人がいつもお世話になっております』
その言葉に妻としての誇りがにじみ出ていた。若くてきれいなあの人なら、彼じゃなくても他に良い人が出来るかもしれない…。

誰も傷つけたくない。そんなのは詭弁だ。本当は自分が責められたくないだけ。自分に非があると思いたくないだけ。主人が会社の部下と不倫して離婚の原因になればいい。あのキレイな奥さんが若い男と浮気して、彼と離婚してくれれば…。

養育費は仕方ないとしても、慰謝料は払わずに済むし、主人が浮気しての離婚だったら反対に私が慰謝料をもらえるくらいだ。そうなれば、私も彼も周りから責められずに一緒になれる。そんな自分勝手な妄想もした。本当に人間として最低だと思った。


逢瀬を重ねるたびに何度も何度も考えた。彼は私のことを本気で愛しているわけではないだろう。娘がまだ小さくて掛かりきりになってしまっている奥さんに構ってもらえず、母のような年上の私を選んだに違いない。結婚もして子どももいる10歳も上の私が、分別なく離婚や結婚を迫ることはないだろうと踏んでいるのか。身体だけの割り切った関係。そう思っているのだろう。世間にバレる前に別れた方が良い。ドロドロの修羅場なんて味わいたくもない。キレイな思い出のまま終わった方が良い。そう思っていたのに…。

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「いつ決まったの?」
『3ヶ月前に部長に打診されて…先月決まったよ』
「先月?だってこの間会った時は何も言っていなかったじゃない!」
『ごめん…家族会議してた』
「3ヶ月前だって、そんな話1度も出なかった…」
『うん…ごめん』

彼はバツの悪そうな顔をして横を向いた。
『会社じゃなくて他で話そう。ここだとまずいから…』
「私と別れるつもりだったのね。そうなんでしょ!黙ってそのまま何食わぬ顔して、私の前から消えるつもりだったんでしょ?」
『そんなことはないよ。ちゃんと事前に話そうと思ってた』
「だってもう決定したんでしょ!私に決める権利なんて与えてくれなかったじゃない!」


『俺は……あなたをこの決定権の中に入れなきゃいけなかったの?』
「え…」

彼は急に今まで見せたこともないような冷たい視線を投げかけてきた。
『和歌子さんだって分かってたはずでしょ。いずれ終わる関係だって。俺だってあなただって離婚するつもりも、一緒になるつもりもなかったじゃん、最初から』

私はグッと言葉を飲み込んだ。悔しかった。彼にそんな簡単な関係なんだと初めから思われていたなんて。やっぱり私とは身体だけの割り切った関係だったんだ。私が見ていた甘い夢を彼も一緒に見ていたわけじゃなかったんだ…。

涙が出そうになるのを我慢して、言いたい事も言えない情けなさに唇がプルプルと震えた。あまりにも悔しくて情けなくて…。それが原因だったのか分からないが、私は急に激しい腹痛を覚えた。

「いた…痛い!痛い!」
『え!どうしたの?和歌子さん大丈夫?どこが痛いの?』
お腹を抱え座り込む私を心配そうに覗き込み、自分の手に負えないと思ったのか、彼はすぐに他の同僚を連れてきて救急車の手配をした。彼はそのまま救急車に一緒に乗って病院まで付き添ってくれた。

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連絡を受けた主人と娘が病院に駆けつけると、彼は私が会社で具合が悪くなったので一緒についてきました。ご家族がいらしたので僕はこれで…と挨拶をして会社に戻って行ったらしい。

病名は虫垂炎。盲腸だった。幸い手術はせず薬で治まるらしい。しばらく入院したら退院できるそうだ。主人は会社から急いで駆けつけたのか、スーツの上着も置いてきてしまったらしい。娘と自宅で入院に必要な下着や洗面道具をバッグに詰めて、車を飛ばして来てくれた。

『パパ大変だったんだよ。ママが入院したことなんて1度もなかったから焦っちゃって、死んだらどうしようとか悪い病気だったらとか。いつも冷静で無口なパパがあんなに慌ててるところ初めて見たわ』。
娘は、入院手続きで病室から出て行った主人を見送ると、こっそりと耳打ちしてきた。

バッグの中には、娘が揃えてくれた下着などの他に、私が入院中淋しくないようにと、息子が小さい頃に買ったぬいぐるみや、リビングに飾ってあった家族の写真立てが入っていた。

『ママが家族と離れて1人で入院生活送らなきゃならないからって。笑っちゃうよね』
娘はそういうと、サイドテーブルに写真立てを飾った。こんな短期間の入院で、ぬいぐるみも写真も必要なかったのに。退院する時、荷物になるじゃない。もうパパったら馬鹿みたい…。

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家族と、主人の不器用な愛情に包まれて、数日後には無事退院できた。会社に挨拶に行くと彼が廊下で待っていた。明日から新しい異動先に赴任するため、みんなに挨拶に来たらしい。

「異動おめでとう。昇進だもんね。向こうに行っても元気で、ご家族と仲良くね」
『無事、退院して良かった。和歌子さんも元気で。俺…本当にあなたを好きだったよ。身体だけの関係じゃなくて』
「ありがとう。私も…」

彼の言葉が本当かどうかは分からない。最後に気を遣ってくれたのかもしれない。それでも…私は心が晴れ晴れとしていた。彼と過ごした数年間は、本当に楽しくて愛しくてキラキラとした大切な宝物だ。まだ彼の事を考えたら、胸の奥がちくっと痛くなるけれど…出逢えて良かった。

何も知らない私やあなたの家族に嘘を突き通す罪は大きいけれど‪…‬‪…私はこの世界で主人や子供達と生きていく。あなたも娘さんと奥さんと幸せにね。

家族の大切さや愛情を思い出させてくれたあなたに感謝。心に抱えた罪悪感とちょっぴりの切なさを胸に、前を向いて生きていく。それでも‪…‬いつかまた…時の彼方で出逢えたなら…。雨上がりの青い空を見上げながら、そんな妄想をしている自分が可愛らしくも馬鹿らしくも思えた。

さようなら。大好きだった人。さようなら。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。新しいシリーズを執筆中ですので、お楽しみに❤️ (掲載日はまだ未定です)

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