時の彼方で ~第7章・雅彦(まさひこ)~
『パパ!食事中にスマホ見ないでっていつも言ってるでしょ!』
『ああ、もうあんた達、早く支度しなさい!』
『ちょっと!お弁当忘れてるわよ!』
『お兄ちゃん!昨日のうちにやっておきなさいって言ったでしょ!』
『大学生にもなってイチイチ言われないようにしてよ!』
『ほら、あんたも!髪の毛巻いてる暇ないでしょ!』
うちの朝は、毎日妻の小言で始まる。大学生の息子は、ほとんど朝ご飯を食べず、黙ったまま出て行く。高校生の娘は、ダイエットだか何だとかで幼稚園生が持っていくような小さな弁当を毎日親に作ってもらってるくせに、おしゃれだけは一人前だ。俺は早目に起きて1人でコーヒーを入れ、スマホのニュースに一通り目を通して会社へ出かけていく。
会社では上から押さえつけられ、下から突き上げられる、いわゆる中間管理職で、家では東京郊外に猫の額ほどの庭付き一戸建てを購入した30年ローン持ちの中年男だ。子供達はそれぞれ大きくなって親には全く無関心。妻も若い頃は可愛かったが、今では顔を合わせれば文句や小言ばっかりだ。会社でも家でも心の休まる場所がない。俺は何のために働いているんだ。家のローンと子供の学費のために、汗水たらして真面目に働いてきた。それでも子供に尊敬されるどころか邪魔者扱いだし、妻も「せっかく1人でのんびりしてたのに、帰ってきちゃったの?」と言うような顔をたびたびする。俺の50年は何だったのか…。
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天気が良く気持ち良い朝、ふと俺は会社をずる休みしようと計画した。急に具合が悪くなった事にして有給休暇を取った。今まで無断欠勤も遅刻もしなかった俺が、嘘をついてまで会社を休んだのだ。俺にとっては小さな冒険の始まりだった。どこに行こうか。妻に怪しまれないよう、普段通りスーツを着てカバンに普段着を入れておいた。
「じゃあ、行って来る。今日は部下が相談があるらしいので、飲んで帰るから夕飯は要らないよ」
『分かりました。行ってらっしゃい』
いつも通り妻はテレビに目を向けたまま、こちらを見ずにそう言うと、まるで俺の存在なんてないような態度だった。
「さて、どこに行くかな」
俺は駅のトイレで着替えると、スーツやカバンをコインロッカーに押し込んだ。あれこれ考えてはいたが、いざとなるとなかなか行きたい所が思い浮かばない。うーん。ボーっと駅のベンチに腰掛けてまぶしい青空を眺めていたら、ふと「彼女」の事を思い出した。
ああ…あの子がいたな。「彼女」は2つ年下の可愛らしい子だった。俺の事を先輩、先輩と慕ってくれて俺が話しかけると恥ずかしそうにモジモジとしてたっけ。あの子と出会ったのは高校の入学式だった。俺は部活の勧誘で新入生にチラシを配っていた。1年生に部活紹介をするため、入学式の後に体育館で壇上にも立った。その時、1番前の席にいたのがあの子だった。目が大きくてクルクルとよく動く小動物みたいで可愛いなと思ったっけ。
それから、しばらくは接点がなかったけど、俺の試合には必ず見に来てくれていた。いつも後ろの方でこっそりと見ているようなおとなしい子だった。俺の事を見に来ていたのか、他の奴を見に来ていたのかはわからなかったけど…それでも、彼女の姿を見つけると嬉しくて頑張れたっけ。
俺は、3年の夏休み前に行なわれる引退試合の後に、彼女に告白しようと思っていた。卒業後は、叔父の紹介で海外に留学する予定だったから、その前に何とか連絡先を聞いて、できれば付き合いたいと思っていた。でも、最後の引退試合に彼女は来なかった。
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明日から夏休みだ。俺は留学先の下見のため海外に行かなくてはならない。しばらく彼女にも会えないだろう。その前に何とかならないか…。あれ?前から来るの、彼女じゃないか?本当に?これはチャンスじゃないか、雅彦!今だ!声を掛けろ!
「あ…ね、君!1年生だよね?」
『あ…はい』
彼女は下を向いたままそう答えた。やっぱり試合を見に来てくれていたのは、俺が目当てじゃないのか?いや、でももう声かけちゃったんだ!しっかりしろ雅彦!
「勘違いだったらごめん。いつも試合、見に来てくれてたよね?」
俺は畳みかけるように一気にしゃべった。
「この間、引退試合があったんだけど…」
『はい…知ってます』
「具合でも悪かった?」
『い…いいえ…あの…いや、何でもないです』
「俺、ちょっと期待しちゃったんだけど。君が来てくれるかなって」
言っちまった!とうとう言っちまった。彼女は口を押えたり頭を押さえたり胸を押さえてた。な…何やってんだろう…?まあ、可愛いから良いけど。
「あのさ、良かったらLINE教えてくれる?」俺はそう言うと制服のポケットからスマホを出した。すると彼女はいきなり
『彼女さんは?』と聞いてきた。
「彼女?」(誰の事だ?)
『あ、あの…本屋さんで偶然、見かけたんです。髪の長い美人さんを』
「え…?本屋?ああ!俺の家の近くの?」
『はい、そうです。コンビニの隣の…』
「ああ!アイツは中学の同級生だよ。幼稚園から一緒の幼なじみ。家族ぐるみで付き合いがあって、もう兄妹みたいなもんかな。だけど、どうしてそれを知って…」俺が問いかけようとしたその瞬間、
いきなり彼女が堰を切ったように
『先輩!待ってても良いですかっ?』
と聞いてきた。
え?それって告白?マジか。俺が先に言おうと思ってたのに…まいったな。
「俺、卒業したら2年間海外にサッカー留学に行くんだ。せっかく行けるチャンスが出来たから、向こうでは目一杯やりたい事に専念したい。でも…君のこと、もっと知りたい」
「だから、友達からお願いします。向こうに行くまで半年あるし。とりあえずこれからご飯でも食べに行こうか?」
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それから俺達は付き合い出して、海外に行っている間も手紙や国際電話でやり取りをした。海外に行く前の半年間は、ほとんど毎日のように会って話をしたり映画やカラオケに行ったり。
『先輩。先輩はいつも何て呼ばれているんですか?』
「うーん、雅彦だからまーちゃんとかマー君かな。家族はまーちゃんって呼ぶよ。友達は雅彦かマー君」
『そっか。じゃあ、私は雅くんって呼んでも良いですか?』
「雅くん?」
『うん。私だけが呼ぶ、特別な呼び方が良いの』
彼女はそれから俺の事を先輩から雅くんと呼ぶようになった。後にも先にも、俺の事を雅くんと呼ぶのは彼女だけだった。その後、何年か付き合って…彼女が就職した年に俺達はすれ違いから別れを選んだ。生涯あんなに愛した女性は彼女だけだった。絶対に彼女を一生幸せにしようと思っていたのに…。
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俺は駅のトイレでスーツに着替えると、夜遅く何食わぬ顔をして家に帰った。普段なら先に寝ているはずの妻が起きて待っていた。
『パパ…ちょっとこっちに来て』
神妙な顔つきで妻がリビングに俺を招く。
『今日、会社の人が、課長のお加減いかがですかって連絡してくれたの。お仕事休んだんだって?』
(ああ!こんな時に限って連絡してくるなんて…)
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妻はしばらく黙っていたが、意を決したように俺に向き直ると
『パパ…ううん、雅くん。話したいことがあるの』
と切り出した。
『私達…結婚する時に約束したよね。お付き合いしていた頃は、お互い1番大切で、大好きで、幸せになろうねって。でも私が社会人になってすれ違いが多くなって、1回別れちゃったでしょう。その後やっぱり1番大切な人だったって…復縁して結婚して。子供達が生まれてからも幸せだった。平凡だけど幸せだった。でも、雅くんの仕事が忙しくなって、私も子育てで毎日イライラして…。段々すれ違いが多くなって。でも結婚したんだから仕方ないって思うようにしてた。あなたは家族のために家のために頑張ってくれているんだって』
『でも…私、淋しかった。雅くんとの会話がどんどんなくなって…。あなたも私のことママって呼ぶようになって名前を呼んでくれなくなった。私もいつからか、雅くんって呼ばなくなった。いいお父さんとお母さんでいようって思ってた。でも淋しかった』
妻はそう言うと泣き崩れてしまった。俺は…この子を世界一幸せにすると思っていたんじゃないのか。家族のためだからと、家のローンを払わなきゃと仕事に明け暮れ、息子が初めてしゃべった時も、娘が初めておむつが取れた時も妻から聞くだけだった。周りに親戚もいない。親も結婚前に亡くなったので子育ての手伝いをしてくれる人もいない状況で、妻は独りきりで一生懸命、家を、家族を守ってくれていた。
俺は一体何を見ていたのか。1番大切で愛しているこの子を一生幸せにすると決心したんじゃなかったのか。妻の泣き顔を見た時、入学式の時の彼女の顔が脳裏によみがえった。
「ごめん…。俺が悪かった。家族のために一生懸命頑張っていると思っていた。でも…淋しい思いをさせてたね。俺も淋しかったよ」と言うと
彼女は『うん』とうなずいた。
あの時、彼女と見た青空はいつも変わらなかった。いつの間に忘れていたんだろう。白髪で頭が真っ白になって、手や顔にシミが出来て、おでこのしわが深くなっても、この子と死ぬまで一緒にいたいと思ったあの時。生まれ変わっても必ず一緒になろうと思ったあの時。俺達は何度別れても、命尽きても、また時の彼方で巡り合おうと誓った。そんなことも忘れていたのか。
「また今日からやり直しだな。葉月、君は今も入学式で出会った時のまんまだよ」
妻のちょっと照れた笑い顔は、あの頃のように幼く可愛いままだった。
ずっと、ずっと。これからもずっと。いつか二人に永遠の別れが来ても…また、時の彼方で出会おう。ずっと、ずっと二人でいよう。
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