人形たちは自分自身の足で立つ|平家物語「祇王」現代版|小説5000字
こんばんは、樹立夏です。
平家物語の「祇王」が大好きです。
祇王さまが現代にいらっしゃったら、という想像をきっかけに小説を書きました。
ご一読いただけますと幸いです。
題|人形たちは自分自身の足で立つ|
やわらかな光が差し込む、春の午後だった。カーテンを開けると、この国で一番大きな街が、眼下に広がる。縦横無尽に張り巡らされた道路、大小様々な建物たちが、ひしめき合うように地面を埋め尽くしている。この街は変わり続ける。すべては移り変わっていく。永遠に変わらないものなど、存在しない。そっとため息をつき、カーテンを閉めた。このタワーマンションは、お伽話に出てくるお城の塔のようだ。
鏡に映った自分を見つめる。
「あなたは、どうしたいの?」
ずっと前からわかっていた。いつか、あの人の心は離れていく。体にぴったりと沿う白いレースのドレスに身を包み、銀色のピンヒールを履く。ヘアサロンで髪をセットしてもらっている間に、夜の世界に相応しい濃い化粧をする。自分が、「人形」になっていく。
「ユウナさん、バースデーパーティー、緊張してます?」
スタイリストのコウヘイが、ユウナの長い黒髪を巻きながら話しかける。
「緊張してるよ~! 一週間前から眠れなかったもん!」
「大丈夫ですよ! ユウナさんは、『クラブ・カレン』不動のエースですから!」
この屈託のない笑顔には、時々ものすごく救われている。いつもありがとね、とサロンを出ると、高級クラブで働くホステスのモードに入り、職場に向かった。クラブの入り口を埋め尽くすように、胡蝶蘭をあしらった、沢山のフラワーアレンジメントが届いていた。地下に降りる。きらきらと輝く鏡張りの部屋、アンティークのワインレッドのソファに、深川教授が座っていた。一瞬、壁の鏡で自分の姿を確認する。化粧も、ドレスも、髪も、上品に仕上がっていた。『大丈夫』と、心の中でつぶやき、とっておきの笑顔を作って、深川教授の横に座る。
「お誕生日おめでとう! ユウナちゃん」
「早いもので、もう二十七歳です」
そっと深川教授の手に触れた。深川教授は、二年前、若干四十歳のときに、大学病院の第一内科の教授に昇進した切れ者である。彼は、ユウナのパトロンだった。お城のような部屋も、服も、バッグも、アクセサリーも、全て深川教授が買ってくれた。貧しく暮らす母と妹に仕送りをしていることを知ると、送金さえもしてくれるようになった。ピラミッドのように高く積まれたシャンパングラスの頂上に、高価なお酒が注がれていく。ユウナ目当ての客がひっきりなしに訪れる。店内を移動し、順番に客にお礼をして回る。
「ユウナちゃんのヴァイオリンが聴きたい人~!」
どこからともなく、声が上がった。ユウナは音大を出て、かつてヴァイオリン奏者をしていた。経済的な理由で、断念せざるを得なくなってしまい、ホステスに転身したのだ。黒服と呼ばれる男性スタッフが、ユウナにヴァイオリンを差し出す。
「それでは、一曲弾かせていただきます」
コンサート・ミストレスのようにお辞儀をすると、ユウナはヴァイオリンを構え、アイルランド民謡を奏で始めた。ユウナの中には、母方のアイルランドの血が流れている。弾きながら、深川教授を探した。目が合う。ああ、よかった。彼の心はまだ、離れていない。曲が終わり、安心してお辞儀をし、席に戻った、その時だった。
急に明かりが消え、部屋の対角にあるステージをスポットライトが照らした。浮かび上がったのは、銀色の髪をツインテールに結い上げ、黒のタイトなニットとショートパンツ、ロングブーツを纏った、少女だった。
「なんか、地下アイドルやってる子で。ママが呼んだらしいですよ。まだ二十歳だって」
隣の後輩ホステスが耳元で囁いた。銀髪の少女は、マイクを手に瞼を閉じた。目元を強調する化粧をしているが、もともと整った顔立ちをしているのだろう。肌は雪のように白く、なめらかだった。少女は目を開いた。
「今晩は。エルです。ユウナさん、今日はお誕生日、おめでとうございます」
エルは、見た目にそぐわず、低い声で大人びた話し方をすると、真顔で初対面のユウナをじっと見つめた。一呼吸置くと、ジャズピアノの生演奏に乗せて、エルの声が会場を震わせた。地下アイドルとは思えない、太く官能的な声、完璧な音程と美しい英語の発音の、バースデーソングだった。
心がかき乱された。無意識に深川教授を探す。彼は、子供のような無邪気できらきらとした目で、エルを見つめていた。心がエルに移ったことは、疑いようがなかった。
深川教授は、すぐにユウナをお城から追い払った。アイルランドの祖母がくれた、命より大事なヴァイオリン以外、自分の持ち物などなかった。最後に一度、思い出を目に焼き付けたくて、部屋に戻ったユウナは、手を取り合ったエルと深川教授に鉢合わせた。こめかみがどくん、どくんと脈打つ。
「出て行ってくれるように、お願いしたはずだけど……?」
彼の視線は、言葉は、心を引き裂く氷の刃のようだった。
「それ、ヴァイオリン? そうだ! エルのために一曲、弾いてくれないか? 最近、エルが元気をなくしていてね」
自分だけのものだった、この笑顔。気まずそうに俯くエルを横目に、ユウナは覚悟を決め、歯を食いしばると、ヴァイオリンを構えた。ヴァイオリンの音だけを泣かせて、死んでも自分は泣くものか、と思った。エルは、最初の一音を聴くと、はっとしてユウナを見つめたが、深川教授はエルばかりを見ていた。この人には、音楽なんてわからない。心の中で毒づきかけて、気持ちを抑えた。彼からもらったのは、目に見えるものだけではないと、思いたかったからだ。曲が終わると、かつて愛したその人は、ユウナを目で追い払い、エルの肩を抱いた。
それからしばらくして、当面の間一人暮らしができるだけのお金が貯まると、ユウナはクラブのホステスを辞めた。まっさらなワンルームに一人、膝を抱えて座る。後ろで一つにまとめた長い黒髪を、ハサミで切り落とした。軽くなった頭を振ると、髪がさらさらと音を立てる。心を支配していた嫉妬や絶望が、遠のいていく気がした。これからは、ヴァイオリンだけで食べていくと決めた。母と妹への仕送りをすると、暮らしに困る日も来るだろう。それでも、決めた。
「これからは、自分の足だけで立って、生きていくからね」
ヴァイオリンをそうっと撫でる。なんだか妙に照れくさくて、ユウナはかすかに微笑んだ。笑えたのは、ずいぶん久しぶりのことだった。ユウナの味方は、ヴァイオリンだけだった。
エルは、泣きながら夜の街を走った。深川教授と暮らしていたお城から逃げ出したのだ。青や銀のイルミネーションが瞬き、この特別な夜に、街路樹を輝かせていた。涙であふれた視界で、その光が乱反射する。深川教授との日々は、エルの心をすり減らしただけだった。毎日、あの時のユウナを思いだした。むせび泣くような、あのヴァイオリンの音色を。時間の問題だ。いつか、自分も同じように捨てられる。そう思うと、エルは歌えなくなった。あんなに歌うことを愛していたのに、声すらも出せなくなってしまった。
クリスマス・イブの街を、幸せそうなカップルたちが闊歩する。ショー・ウインドウに映った自分の泣き顔と目が合った。こんなにも、やつれてしまったなんて。彼の「人形」であり続けることなど、もう、できない。しかし、お城を飛び出したからといって、行くあてもない。未来のことを考えると、腹の底から不安がふつふつと沸き上がった。ふらふらと夜の街を彷徨っていると、方々から好奇の視線を投げかけられた。身の危険を感じ、夜間営業をしているカフェに入ることにした。本物のもみの木が、赤や金銀のオーナメントで飾られている。部屋の隅の薪ストーブの火が爆ぜた。冷え切った体と心が、じんわりとほぐれていく。温かいカフェラテを注文し、しばらくの間、物思いに耽ることにした。
ヴァイオリンの音が聞こえた。なぜか懐かしい、アイルランド民謡の独特な節回し。その音にはっとして振り返る。弾いていたのは、ユウナだった。シンプルな黒いワンピースが、黒髪のショートヘアによく映えている。首から下げているのは、十字架だろうか。ユウナは目を伏せて、ゆっくりと弓を動かしながら、瞑想しているようにも見えた。囁くような声で、ヴァイオリンは神への祈りを歌う。讃美歌とは、こんなにも清らかで、心洗われるものだったのか。黙々とBGMを演奏するユウナに、エルは見惚れた。ユウナは、深川教授に囲われていた時よりも、ずっと自由で美しくなっていた。
閉店の時間だ。ユウナが、楽器を片付け始めた。エルは、勇気を振り絞り、ユウナのもとへ駆け寄った。かつての恋敵を、ユウナは軽蔑するだろうか。そもそも、声は出るのか。震えるエルを見て、ユウナは、穏やかに笑った。
「どうしたの? クリスマス・イブの夜なのに」
「深川教授のお城から、逃げ出してきました」
声が、出た。エルは、驚いて、両手で喉を包んだ。
「そう……」
ユウナは少し考えると、エルの肩に触れた。
「しばらく、私の部屋で暮らすといいわ。お城と違って、ずいぶん狭いけれど」
見開いたエルの瞳が、涙に飲み込まれていく。ユウナは、温かな指で、その涙を拭った。
ユウナは、エルをワンルームに案内し、ラグの上に座るよう促した。二人分の温かいココアにマシュマロを浮かべて、テーブルの上に置くと、ユウナはゆっくりとした所作で、楽器の手入れを始めた。大切な人を愛おしむように、楽器を扱う。
「ここのアパート、楽器演奏が禁止なの。だから、さっきのカフェで、BGMを弾くかわりに、練習もさせてもらっていて」
「ユウナさんは」
エルが俯きながら、掠れた声で話しかけた。
「今の自分の方が、好きですか?」
「そうね。それは、間違いないわ」
そう言うと、ユウナは目を伏せた。
「あの人からもらったのは、目に見えるものだけじゃなかったって、愛だったって、自分に言い聞かせたわ。でも、結局あの人が愛していたのは、自分自身だけ」
エルの胸が、疼いた。
「けれど今は、ありのままの自分が、神様に愛されているって、ちゃんとわかるから」
首から下げた十字架に触れ、ユウナは、目を閉じて天を仰いだ。
「このロザリオは、アイルランドにいる母からもらった、大切なお守りなの」
ユウナは、敬虔なカトリックだという。独特な節回しのあの演奏は、祖国から受け継がれたものだったのだ。エルは、自分の凍り付いた心が、ゆっくりと融けていくのを感じた。
「ユウナさん。私の髪、切ってくれませんか」
エルの瞳が、澄んだ。
「あなたが、そう望むのなら」
ユウナは、エルの長い銀髪を、ためらうことなくハサミで切り落とした。エルは、少し泣くと、すぐに涙を拭って、笑った。
クリスマスの朝、ユウナが目を覚ますと、エルの姿はどこにもなかった。
ユウナは、必死で自分を売り込み、精一杯にヴァイオリンを弾いた。徐々に、ユウナのヴァイオリンを気に入ってくれる人々が現れ、少しではあるが、演奏でお金を稼ぐことができるようになった。その人々と、神様のために、ユウナはヴァイオリンを弾いた。祈りの言葉を紡ぐように、丁寧に、丁寧に。演奏の終わりに、ユウナは自分の身の上話をするようになった。小さなカフェやバーは、悩みを抱える人々と、ユウナの心の交流の場となった。ユウナのヴァイオリンを聴くと、不思議と心が洗われるという噂を聞きつけ、観客は増えていく。クラブのホステスを辞めて、一年が経とうとしていた。初めての単独演奏会を終え、何もかも出し切ったユウナは、楽屋の椅子に沈み込んだ。少しうとうととして、物音で目を覚ますと、そこには、エルがいた。
「ユウナさん、演奏、すごくよかった」
銀髪のショートヘアをさらりと揺らし、エルは、白百合の花束を差し出した。聖母マリアを象徴する花だ。
「今、ジャズ・シンガーやってます。ユウナさんのおかげです」
やはり見た目にそぐわない、大人びた話し方をすると、エルはにっと笑った。
「そう……。元気で、よかった」
ユウナの笑顔は、神々しいほどに慈愛に満ちていた。心からの言葉に、エルは涙ぐんだ。
「今年のクリスマスにね、私、ユウナさんのヴァイオリンと一緒に、讃美歌を歌いたい」
何も言わずに、ユウナはエルを抱きしめた。二人とも、泣いていた。清らかな花束の香りが、二人をそっと包んだ。
<終>
↓キャスト↓
祇王 :ユウナ
仏御前:エル
平清盛:深川
祇王さまも、仏御前さまも大好きです。
平家物語。何度も読み返したくなる名作中の名作です。
春まだ浅いときに訪れた、祇王寺の窓より。
ついに、時を超えて、憧れの祇王さまと同じ景色を見ることができました!
白拍子の御朱印帳も入手。大満足です。