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四神京詞華集/NAMIDA(20)
【夜明けの前は…】
彼女の夜は明けつつあった。
いや、単に白け始めただけといってもいい。
山から降りてくる霧が条を覆っている。
湿った空気が坊に満ちている。
日輪は雲の裏からおぼろげに光っている。
それが彼女に向けた寿ぎの限りであるかのように。
○紀広澄の館・庭・早暁
未だ寝衣のままの紀広澄が簀子に現れる。
穢人の娘と巨大な呉女の伎楽面で顔を覆い獏の置物を抱えた禍人が、家人に矛を向けられたまま庭にひれ伏している。
広澄「卑奴呼。よもやその者は」
卑奴呼「はい! 姫さまです!」
広澄「そうか。見つけ出したのか」
卑奴呼「っていうか戻って来てくれました」
広澄「慧子殿」
呉女「……」
広澄「何故口をきかぬ」
卑奴呼「照れてんじゃないですか?」
呉女「(小声で)違うし」
卑奴呼「ツンデレ~」
広澄「今何と申した?」
呉女の面の奥ですすり泣きが響く。
広澄「確かに昔と変わらぬ半ベソだな」
卑奴呼「むしろ全ベソっすね」
呉女「(超小声で)卑奴呼うるさい」
広澄「何? 面が邪魔で聞きとれぬ」
卑奴呼「お面取りましょうよ」
呉女「絶対やだ」
かぶりを振る呉女。
頭部がぐるぐると不気味に回転する。
広澄「まあ無理強いはよくないな」
卑奴呼「ほーら。言葉通じてるじゃないですか。もっと大きな声でお話しないと。せーの『大好き~!』」
呉女「ひ、ひひひ! 卑奴呼!」
卑奴呼「あははは」
卑奴呼につられて広澄も朗らかに笑った。
呉女は再び口を閉ざし頭を下げる。
広澄は家来を下がらせ、二人を簀子へと上がらせた。
呉女は卑奴呼を通じてこれまでの始終を広澄に伝えた。
広澄「成程。呪いとは単なる幻覚か。確かに腑に落ちる。されど何故術者を殺せば都合よく人に戻れるのだ? 左様な都合のよさこそ、人知を超えた幻ならざる秘術ではないのか?」
呉女「私、思いますに」
卑奴呼「姫が思ってることは」
呉女「よい。直にお話します」
呉女は躊躇うように広澄を見つめた。
呉女「広澄様……」
広澄は微笑んで力強く頷いた。
呉女「我が身に憑きし忌まわしき文様。もとは墨で施されたものでしたが今は痣に変わっています。痣とは体より出ずるもの。心もまた体の一部。故に今はこの痣、我が心が作り出しているものかと」
広澄「ふむ……」
呉女「術者を廃すれば心が休まり痣が消える。その理屈こそ、祓魔師の申す解呪の正体であると私は……あれ? じゃあ何故無事に呪いを解いた人がいないの? 本当に復讐を成し遂げれば心は安らぐの?」
呉女の言葉は次第に自問へと変わりつつあった。
と、その苦悩を払うように広澄が大きく手を叩いた。
広澄「よし! 悩むのはここまでだ!」
同時に傍らで舟を漕いでいた卑奴呼が飛び起きる。
卑奴呼「は、はい! 寝てません! 寝てませんよ!」
広澄「卑奴呼。共に書庫に参れ。唐の文献を端から調べてみるぞ。どこかに呪いについて記されているやも知れん」
卑奴呼「だったら私一人で行ってきますね」
広澄「お前は文字が読めぬだろう。取り出し係だ」
卑奴呼「失礼な! ちゃんと姫に教わってます。かぶとむし。こがねむし。かまきり。とんぼ。せみ。あり。のみ。か」
広澄「虫ばかりではないか」
呉女「しかも飽きてきて、覚える単語がどんどん短くなってるし」
卑奴呼「冊に本の名前とか書いてくれれば書庫から持って参ります」
広澄「左様か」
広澄はいくつかの木簡に筆を走らせると卑奴呼に渡す。
広澄「よいか。焦らずゆっくり探せ」
卑奴呼「がってん」
広澄、卑奴呼の頭をポンポンと優しく叩く。
広澄「お前は穢人とは思えぬほどの人品を秘めておる。頭もよい」
卑奴呼「姫の教えの賜物です」
広澄「西の荒れ野でどこの馬の骨とも分からぬ下賤の慰み者となるは惜しいゆえ我が家に迎え入れたのだ。これよりも都に留まり、我ら公達郎女の心を慰めてくれ。慧子殿もきっと喜ぶだろう」
広澄の手がゆっくりと卑奴呼の頬を撫ぜる。
卑奴呼は笑顔のまま、しかし反射的に後ろに下がった。
体が無意識に、だがはっきりと何かを警告しているかのようだった。
卑奴呼「じゃ、ちょっくら」
彼女は幾つもの冊を手に書庫に向かった。
簀子には残された呉女と広澄が時を持て余している。
むしろ初対面の頃の方が饒舌だったかのように、初々しく所在なさげなその時間を、だが呉女の方は少し幸せに感じていた。
呉女「卑奴呼から聞きました」
広澄「うむ?」
呉女「きっと私の呪いを解いてくれると」
広澄「……」
呉女「かように不条理な闇の底に落とされてなお、私は幸せ者です。卑奴呼を、あなた様を御仏はおつかわし下された。今はその奇跡を我が徳とは思いませぬ。ただただ感謝しかございませぬ。共に艱難辛苦に立ち向かってくれる妹がごとき卑奴呼と、おもかげ……」
広澄「そうか」
呉女「もう。まだ話の途中です」
広澄「ははは」
呉女「俤人のごとき広澄様と」
と、その時である。
手に手に得物を携えた紀家の家人達が、露を払って庭に現れた。
呉女「広澄様? この者達は?」
広澄は穏やかに笑い続ける。
不穏なほど穏やかに。
よく見るとその目は彼女を見ていない。
単に呉女面を眺めているだけである。
彼女はすがるようにもう一度同じ言葉を繰り返した。
呉女「広澄様? この者達は?」
広澄は眉ひとつ動かさずに口だけで笑い続ける。
呪われし禍人の言葉など、はなから広澄には届いていなかった。
(つづく)