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四神京詞華集/ディスペルへの遠き道(8)
「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢わんとぞ思う」
己が不屈を歌に込めたその人は失意の中で怨霊と化した。
「ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」
その人とほぼ同じ時代に生きた彼は世の無常をそう詠んだ。
壊れた器などはとっととチリトリで集めて燃えないゴミの日に出して、そうして新しい器で美味しいごはんを食べればいい。
それが健全な生き方というものだ。
だが世の中には手を血だらけにしながら器の破片を集めては、きっともとに戻せると本気で信じ込み、泣きながら唾だの米粒だので必死にくっつけようとする、見るも無残な馬鹿者が一定数ながら確かに存在する。
結論から言えば、四神京詞華集はそんな馬鹿者二人の身に起きたことの顛末を描いてゆく物語なのである。
一人は自覚的バカ、蝦夷穢麻呂。
いま一人は無自覚的バカ、ナミダ。
そして壊れた器を唾で元通りにしようという行為を、少なくともナミダの方は『ディスペル(解呪)』だと思い違いをしていた。
○尊星宮・幣殿(夜)
まあさすがに、いつもいつもボランティアとキャバクラ勤務を続けていては身が持たないと思ったのであろう。その夜ナミダは久方ぶりに、ガラクタに塗れたマイルームでくつろいでる……ことはなかった。
キヨメの穢麻呂。
その二つ名が、白虎堀河に流れ着くゴミの再利用を生業とする『リサイクルおじさん』を意味しているというやたら生活感のある戯言を、やはり彼女はどうにも信じることが出来ないでいた。
己が頬に描かれた呪いの刻印、
『妬』
この筆跡が複数の人物によるものと穢麻呂は言いきったからだ。
嘘だとしたら彼が虚言を弄する意味が分からない。
本当だとしても彼女には思い当たるフシがない。
色々とモヤモヤしたものを整理するときが来たようだ。
故に、そろそろハッキリさせなければならない。
蝦夷穢麻呂は確かにディスペルの方法を知っているか、或いはそれに近いところまで呪いの真相に迫っている。
でなければあの襟巻の下で己が首をぐるりと絞めつけているかのような呪詛の輪を、スカしたツラで放ったらかしにしてるはずはない。
ナミダ「家を壊され父を奪われたんだ。もう戸惑ってなどいられない。私を呪った者を見つけて必ず顔の痣を消してみせる。たとえその者を殺めることになろうとも!」
ナミダは幣殿を抜け、穢麻呂の寝所たる拝殿へと向かった。
あの狛さんですら許可なく入ることを許されぬ主の部屋へと。
○同・本殿
丑三つ。
ナミダは不退転の覚悟をもって、すでに眠りについているであろう穢麻呂の首筋に小太刀をつきつけて脅しをかけるべく扉を開けた。
穢麻呂「なんだ?」
ナミダは言葉を失った。
本殿は何もない、っていうかマジ何もない空間だった。
夜逃げ後のボロアパートの方がまだなにかしら生活感が残っている。
この空間はくつろぐくつろげない以前の状態であり正に異界で、無機質さは例えるならCGの撮影に用いるブルーバックエリアに近い。
そのマジ何もない空間に穢麻呂は一人胡坐をかいている。
何もないといっても当然それは修行のような簡素さ清貧さを伴う神聖さなど全く帯びてなどおらずただただ不気味な何もなさであり、シュールホラー感すら漂わせていた。
ナミダ「えっと……間違えました」
完全に見てはならないものを見てしまったような得体の知れない恐怖に襲われたナミダは、何と何をどう間違えたのか自分でも説明のつかない言い逃れを試み幣殿へと戻ろうとした。
ナミダ「ふぁ~? あれえ? ここどこだろ~?」
とりあえず寝ぼけたフリもしてみた。
だったら順番が逆ではないか。
やることなすこと大根役者のそれに他ならない下僕の痴態に、しかしいつもは口汚く罵るはずの主は珍しく静かに告げた。
穢麻呂「おい。用があるのだろう」
その柔和さがナミダには却って不吉以外の何物とも受け止められない。
ナミダ「な、ないです。全然ないです。すいません。すいません」
蝋燭に照らされた赤い目を向け、気味が悪いほど穏やかな歩み寄りをみせてくる穢麻呂に、ナミダは変態監督(或いは俳優)にロックオンされた女優の卵のごとくただただ怯えることしかできない。
嗚呼、最早彼女に出来るのはMeTooと正義の声を上げることだけか?
穢麻呂「汝を呪うた八人の下手人、思い当たるフシは見つかったか?」
いつもの挑発的な主の態度に、下僕はようやく安堵した。
ナミダ「あ、あるわけないでしょう。私を取り巻いていたのは皆藤原や橘をはじめとした殿上人の郎女ばかり。こんな地下の姫など妬むものですか」
珍しく殊勝なもの言いのナミダは少しばかり菅原慧子の相貌に戻っている。
穢麻呂「汝の才を妬んでいる者は?」
ナミダ「女の才が宮中で何ほどの役に立ちましょうや」
穢麻呂「紀広澄との間柄を羨まれてのことでは?」
ナミダ「遊ばれていたのは私の方です。むしろこちらが影で笑われていたとすら思えてなりませぬ。私は元より権門勢家が公達姫君の視界にすら入らぬ木っ端貴族の小娘に過ぎません」
穢麻呂「そこから導き出される答えは?」
ナミダ「それが分からぬから我が君を問いただしに参ったのです」
穢麻呂「何を問う?」
ナミダ「呪いとは何か? 我が君の、蝦夷穢麻呂様の知っている呪いというものの全てを教えて頂きとうございます」
禍の紋様。
呪いを受けたものの証。
曰く唐の呪術を用いて製造された紙(呪物)を呪うべき者の顔にあてがう。
紙にはその者の顔が転写される。
転写された絵に血や毒を混ぜた墨によって恨み辛みを文字に込め記す。
文字はそのまま紋様となって呪うべき者の顔に刻み込まれる。
負の感情……『怨念』の感染。
通常、それは刺青のようにはっきりと形どった単なる痣である。
だが意識的にしろ無意識的にしろ抑えがたいほどに気持ちが高揚すると痣は熱を持って全身に広がり、灼熱のような痛みが我が身を襲う。
痛みは同時に力にもなる。
身を焦がす炎は恐怖も理性も吹き飛ばし負の感情に包み込んでしまう。
痣は一気に全身に広がり、その者を人外の化生へと変形させる。
人ならぬ鬼(モノ)に。
怒の感情……『怨念』の発病。
この病は人間を、超常の力を宿した暴力の権化に変えてしまう。
破壊衝動に満ちた激情が収まるまで心も体も化け物にしてしまう。
やがて、一旦人の姿に戻ってもその身に宿る負の感情は完全に消えることはない。
痣はずっと種火となって身に心に宿り続ける。
まるで、自分を呪った者の悪意が乗り移ったかのように。
ナミダ「故に自分に悪意を感染させた者。自分を呪った者を討ち果たせば、この呪い、いや、病が消えると?」
穢麻呂「それはただの噂だ」
ナミダ「されど噂にも源がありましょう」
穢麻呂「あるとすれば単なる希望的観測というヤツだ。そも病を伝染させた者を殺した所でうつってしまった病は消えぬであろう」
ナミダ「じゃ、じゃあですよ! 我が君のそれ……」
穢麻呂「……」
ナミダ「すみません」
穢麻呂「構わん。続けろ」
ナミダ「我が君は自分に呪いをかけた者を見つけたらどうします? 決して治らないかも知れない病をうつした下手人を捕らえたら。私はそういう話が聞きたいんです。……うん。きっと」
穢麻呂の相貌は崩れない。
ただ、時間だけが静かに流れていく。
ナミダもまた、珍しく次の言葉を焦って放とうとはしない。
下僕らしく我が主の言葉を只管に待つ。
やがて穢麻呂は静かに口を開いた。
穢麻呂「幻昉(げんぽう)という」
ナミダ「……?」
穢麻呂「我に呪いについて教えてくれた者の名だ。帯を蛇の如く操り太刀筋を封じる術を教えてくれたのもヤツだ。遣唐使だったらしい。呪術師を名乗れるほどのの知識や我が今使っておる武術らしき雑技も、全て幻昉が唐帝国より持ち帰ったもの。無論、禍の呪いについてもな」
(つづく)